お孫さんが写真を

E教会のFさんご夫妻が段取りを進めてくださっていました。

トウモロコシの種植えから収穫までの様子を短い一本の動画にしたいと考えて、そのことをお話ししたのが3月の末のことでした。そろそろ種植えの時期だと思いながら、いろいろなことがあって取り組むことができなかったのですが、先日、Fさんご夫妻にお会いしたときに、種植えのときの様子をお孫さんがカメラにおさめてくれているとのこと。そして、成長の過程も写してくださるつもりにしていると伝えてくださったのでした。

7月末には収穫を迎えますが、教会の子どもたちや、近隣の牧師たちも招いてくださって収穫作業と、とりたてのトウモロコシのご相伴に与ることになっています。種植えから収穫までと、農業に携わってこられたFさんご一家の証や、子どもたちの声などを含めた動画が作れそうです。有り難いことです。

テキストの固有性を

聖書を読むときに注意を払わなければならない大切なことの一つは、読んでいる箇所(テキスト)が語るテーマ、あるいは神学的な主題に着目し、テキストの固有性に気づいていくということだと思います。

たとえば、創造論がテーマとなっているテキストの中に、いとも簡単に救済論を読み込んでしまうと、それが救いについて多少なりとも適切に語っているとしても、黙想はおかしな方向に向かい、あれやこれやで、答えのない詮索が始まり、混乱したまま、せっかく読んでいる聖書箇所からは離れて、違う諸テキストを放浪するというようなことになりかねません。

ピントのはっきりとした写真に心が惹かれ、その写真から感銘を受けるように、テキストの主題を的確に捉えるならば、注意深くテキストへと思いがいたり、その固有性の面白さに目が開かれて、テキストが語ろうとしていることに心躍ることになりましょう。

私たちにはそれぞれ自分が抱いている固有な関心がありますから、聖書テキストの中にその関心をぶつけがちです。ある意味、自分の関心に対して速やかな答えを求めるわけです。その関心は大事なことですから抱き続けなければなりませんが、聖書のある箇所を読もうとする時、いったん自分の関心事から離れて、テキストが語ろうとしている主題をとらえ、その固有な語り方に目をとめ、お風呂に入るようにテキストにどっぷりと浸かってみるということが肝要だと思います。

今週、こんなことを改めて考えさせられました。

ヘッセ編「中世説話集」

捨てずに本棚に眠っていたこの本を読みました。最初に手にした時とは違って、興味深く、楽しく読みました。

翻訳が良いですね。名訳ならざれば公にできないのが本書です。元はラテン語、ヘッセがドイツ語に、そして、ドイツ語から日本語には林部圭一氏が。で、ラテン語の説話・寓喩があたかも日本語で書かれたもののごとくに、生き生きと、リズミカルに翻訳されている。言い過ぎだろうか?

シトー会という修道会の信仰と霊性を説いている説話なのだけれども、寓喩のすごさを感じさせます。たわいないお話のようで、中世ヨーロッパの人々の生活や社会の姿が生き生きと描かれており、それが、読む者を物語の世界へと誘い、人間の魂を培う思い巡らしへと誘導します。

ヘッセ編中世説話集

 

聖書と一言と祈り

10年ほど前に、ドイツの教会のある人たちから教えてもらった、少人数の祈りの会のことを思い出しました。

その祈りの会というのは、7,8人が一つのグループになります。4,5人でももちろん良いです。聖書を一カ所決めます。さて、祈りの会の始まりです。

1,聖書を輪読します。

2,誰かが聖書箇所について、短く一口メモ的なことを紹介します。

3,5分ほど参加者が聖書箇所を黙読します。

4,黙読中に思い浮かべたことを短く、ほんとに短く、一言ずつ紹介します。パスしても良いです。

5,順番に短く祈ります。パスしても良いです。

以上が、その祈り会のスタイルです。大切なポイントが二つあります。

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台湾長老教会と台湾総統選挙

民主進歩党(民進党)の蔡 英文氏が当選しました。議会も国民党は過半数を割ったようですね。

国民党の親中国路線と政策、また、最近の経済状況が政変の原因として説明されています。政治の話はよく分かりませんが、たぶん、そういうことなのだと思います。それが、「台湾人」というスローガンと結びついて、民進党の躍進に結びついていったのでしょう。

親しい台湾長老教会の中には民進党を支持する人が多かったのではないかと思います。台湾長老教会は台湾語で礼拝を守っている教会です。第二次大戦以前からあった教会です。18,19世紀に大陸(福建省)からやってきた人々に根ざした教会と言えばよいでしょうか。若い人たちは標準語となっている北京語を話しますから、苦労があるのですが、台湾語の礼拝を維持しておられます。

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「聖書学より聖書のほうが大切だ」

神学大学の同級生で、ここ数年、よく電話をくれる友だちがいます。嘆きとぼやきの電話です。いや、失礼。キリスト教界を憂いて、鼓舞する電話です。

若い頃からリベラルな人だったと思うのですが、そして、教団政治でも違う立場でしたが、先日、受話器の先で「聖書学より聖書のほうが大切だ」と力を込めて話していました。聖書の歴史研究を中途半端に取り入れて、あるイデオロギー(解放思想)に傾く一部の人々(彼の周囲にはそういう人が多いようだ)に対する批判です。ほんとうのリベラルはそんなものではない、ということなのでしょう。

聖書学より聖書のほうが大切だ、というのはその通りだと思うのです。わざわざそう言わなければならない現実があるのは、日本では聖書と伝統に根ざして教会(共同体)を形成することが稀薄であったことに由来するのでしょう。そして、世の中の風潮や思想に教会が、私たちが考えている以上に、飲み込まれてしまっているのかもしれません。

牧師の仕事

真面目に書きます

「牧師の仕事」という題の分厚い書物があります。事柄は多岐にわたり、それぞれに内容の伴うことですから、丁寧に論じれば分厚い書物になることでしょう。

しかし、ごく単純に、二言三言で語ることもできます。模範的な言い方をすると「神の言葉に仕え、神の言葉を伝える」ということです。福音を告げ知らせる、それが牧師の仕事です。「安価な恵みではなく、高価な恵みとともに、イエス・キリストの祝福を告げる」ということです。

これは、容易いことではありませんが、多くの牧師は、私も例外ではありませんが、安易に考えているところがありますね。反省。とは言え、牧師の努力や能力によってなし得ることではない、ということを深く深く心にとめることも大切だと思っています。そこに、牧師の仕事の醍醐味があります。と、思います。

もう少し歳をとったら、「牧師の失敗」あるいは「牧師失格者は語る」という題の本でも書きたいなと、真面目に考えています。

ハロウィン体験の思い出

いつごろからでしょうかね。ハロウィンを・・・なんと言ったらよいのか・・・騒ぐようになったのは。

六本木にいたとき、ロアビルの通り(外苑東通り)は、二日間にわたって大騒ぎになりました。仮装をした人たちが、六本木のことですから、いろいろな国の人たちもまじって、大勢集まり賑やかというか、騒々しかったですね。

爆竹をならす人や、喧嘩をしてスコッチかなにかの瓶を歩道にたたきつける人などもおり、物騒でもありました。なにしろ、普通に歩道を歩くことができないという感じでした。これでは悪魔も幽霊も近寄れないでしょう。泥棒さんはどうか分かりませんが。

ちなみに、10月31日は宗教改革記念日です。こちらのほうが重要な事柄に触れていると思います。「まことの悔い改めとは何か」(95箇条の提題)、これが大事です。

シニアス合唱団のご報告

10月16-20日に来浜されたセムナン教会のシニアス合唱団は、美しい讃美の歌声によってキリストへの思いを深めてくださり、良い思い出を残して帰国されました。来日されたお一人お一人に感謝いたします。

また、このためにご尽力くださった方々にお礼を申し上げます。

写真はクリエイト浜松での練習風景です(17日)。詳しいご紹介は下記のサイトでご覧ください。

http://dendonet.info/senior/

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がっかりしたことが一つ

平和を求める祈り、が常議員会で可決されたようだ。文面を見て、がっかりしてしまった。これが、教会で共に祈る、教会の祈りだろうかと、目を疑った。

決まり文句の戦争責任告白と、罪の告白が、最初と最後に、短く取り上げられているが、中身は、政治的イシューに引っ張られていて、昨今の政治状況に反応しているだけで、今日の世界が背負っている苦悩や困窮についての洞察も、深い嘆きも、神の義と平和と愛による支配(神の国)への祈求もない。神への賛美もなく、祈りの背後に霊性が感じられない。軽率で、政治的アディテーションにすぎないような祈りだ。

私は、その祈りを共に祈りましょう、とは言えない。紹介することもできない。

-ism

神学の分野で ism に対する警戒を唱えたのは K.Barth だと思う。それは、ややもすると絶対化、偶像化するからです。危機神学は -ism との戦いでもあったのだと思います。

若い時、同学年のバルティアンが、盛んに -ism に対する嫌悪を言葉に出していたのを思い出します。私たちは共に、その -ism を大切にする教派に属していましたので身近な問題でもありました。彼は今、某書店の社長をしています。

-ism に対して神経質になりすぎることも、それも一種の -ism ですから気をつけなければなりませんが、-ism に対して批判的な目を養うことは大切なことだと思います。

思い出した

説教塾という勉強グループがある。もう20年前になるだろうか。八王子セミナーハウスで、例のごとく泊まりがけで説教セミナーが開かれた。そのとき、大学生のグループがいくつかセミナーを行っており、、掲示板に書かれていた我々の「説教塾」という名称に、首をかしげたり、クスクス笑ったりと、不思議そうに眺めていたのを思います。

お小言をいうお説教のことを思い浮かべて、そのための塾があるなんで信じられないという反応だった。なるほど、一般の人には何のことか分からないだろう。

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その時、

牧師が教会を辞することを決め、役員会に申し出るということは、重大事項です。そして、その時の、たった一つの理由は、それが召命に応答する歩みであるとの確信が与えられたということです。

これは牧師の召命に関わることで、教会はそのことを受け止めていただく他はありません。また、辞意を表明して、それを翻すということもあってはなりません。そう思います。

牧師は牧師として教会に仕え、教会の徳が高められることを願って務めにあたっています。辞任をするときも同じです。もちろん、個教会のことだけではなく全体教会のことも牧師の責任の範囲ですから、そのことも考慮に含まれます。その上で、辞任が召命に応答する歩みであるとの確信が与えられて、その旨を教会に申し出ます。

その時、さまざまなことが考慮されます。公にできる理由もありますし、それが、本筋ですが、公には決してしない理由も内在します。一切を神に委ね、与えられた務めを終えて、教会を離れます。

辞任する牧師の心境をいろいろと詮索する人がおられます。その多くは人間的な基準から判断して、牧師はあのこと、このことで、悩まされていたのではないかとか、教会や教会員に対して不満が大きくなったのではないか、などという種類のものです。もちろん、牧師も一人の人間ですし、教会も人間の集団ですから、その中で様々な思いを抱くものです。それは、日々の歩みにおいて常なることです。しかし、分かっていただきたいことは、牧師は自分の誉や名誉を考えて物事を判断しません。そのような誘惑にかられることはありますが、そうであってはならないのです。繰り返しますが、教会の徳が高められるかどうかということです。

そのうえで、牧師として決断にいたったこと。それは召命に応答する歩みなのだということを受け止めていただきたいのです。時に、牧師の身勝手と感じることもあるかも知れません。私たちのことを見捨てたのかと思うこともあるかも知れません。そのような人間的な想いを抱くのは当然のことかも知れませんが、それ以上のことが、教会にはあるのです。

それ以上のことに、教会人は仕えているのだと思います。

こんなことを口にしたことはないのです、言いたい気分になったので書きました。失礼しました。

明日は東京

いつでも行けるところではありますが、理由がないと行けないものです。

明日は夏に教会実習のために来浜する某神学生に会います。いろいろと説明をしたり、相談にのるためです。よい実習をしてもらうためには必要なことです。中野で待ち合わせです。

中野といえば・・・フジヤカメラですね・・・ちょっとだけ立ち寄ろうかとも思っています。

もう一つ、銀座のニコン・サービスセンターに行ってD600のセンサークリーニングをしてもらいます。画像に複数の黒い粒状の像が写りこむ現象のためです。実は、これで2回目です。こちらの用事は次いでのことですが。

笑いの神学

積ん読していた、聖母文庫1992年出版のリチャード・コート著「笑いの神学」を読みました。笑いを神学的に考察するというものです。しかも、肯定的にです。

伝統的には笑いが神の属性として考慮されることはありませんでした。ギリシャ的な徳の思想がキリスト教の中に影響を与えたのでしょうか、「イエスは笑わなかった」というフレーズと共に、悲しむキリスト像が神の属性とともに論じられてキリスト教の霊性を形づくってきました。

著者は、しかし、笑い(ユーモア)を神の属性の一つとして加えることを主張し、現代における教会の霊性を受け取りなおす(「再発見」と表現しています)ようにと勧めています。ことに、福音を受けとめるセンス、抑圧の下で自由を獲得する秘訣(笑う勇気)を語ります。その基礎的な神学的考察と、展開とが、古今東西の神学者や哲学者、文学者などの言葉とともに論述されます。神学的な論考ですが、やわらかい楽しい読み物です。翻訳はよくこなれた日本語になっていますが、一部、混乱があるのかな?と思わせるところもあります。けっこう重要な部分なので、原文を眺めてみたいとい思っています。

以下の言葉は、笑いの神学の入り口となる重要なイメージとして語られていますが、わたくしはことのほか気に入りました。「教皇ヨハネ23世は笑いの預言者だった。教皇の信仰は、新しい時代のさきぶれとなり、教会の中で笑いを可能にした。教皇の信仰は、教皇が弱い、罪深い、いくらか本物らしくない、太った、よろよろする人間であってもよいのだと、堂々としかも率直に宣言した。」

なお、リチャード・コート氏は神父で、アメリカと南アフリカで神学を教えた経験をお持ちで、本書の発売時には、カナダのオタワのセント・ポール大学で神学を講じておられました。博学でプロテスタント神学にも親しみをもって接しておられるようです。

うきうきイースター?

よく利用するスーパーマーケットの食品売り場に併設されているパン屋さん。うきうきイースターと銘打った小さなコーナーを用意しておられました。ウサギをデザインしたパンや、タマゴ型のドーナッツなどが置かれていたので、いくつか購入し、家でいただきました。来年もこのコーナーを設けてもらいたいと思ったのです。

ただひとつ。「うきうき」イースターにちょこっと違和感を持ちます。イースターが喜ばしい祭りであることに違いありませんが、福音書にあるように、恐れ、あるいは、畏れが伴っていることを忘れないようにしたいものだと思うのです。

再びパースペクティブ

ほんの少し関係を持つようになった聖書に関する番組制作でのこと。それは、アメリカで制作されたものを翻訳して日本語の番組にするというものです。

その番組の冒頭にパースペクティブという語が重要な意味を担って用いられているのですが、どうも、ちゃんと理解されていないようです。

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土に一体化するイエス

クレーフェ降誕2_ページ_2

有名な?ヨース・ファン・クレーフェ(1485ー1540年)の『降誕』、ウィーン美術史美術館所蔵です。土の上に産み落とされたイエスがその周囲に光を放っている。

天につける者でありながら、大地という低いところに自らを落とし、土(アダマー)から造られた人間(アダム)と同じ姿になられたと告げています。

ちょっと苦痛なクリスマス

クリスマスが苦痛なのではありません。いや、ちょっと待ってください、食べ過ぎてしまうので苦痛を感じることがありますね・・・でも、クリスマスが嫌なのではなく、嬉しい季節ですが、

私にとって苦痛を感じることが、実は、あるのです。それは、毎年毎年、クリスマスの説教を準備しなければならないということです。少なくとも毎年4,5回、多いときには10回ぐらいするときもあります。それを何年続けてきたでしょう。28歳のときからですから、36年になります。

説教の準備が辛いと感じるのは、事柄が大きすぎてその大きさに圧倒されるだけで、わたしのどんな言葉も貧しいからです。

いつの日か、説教の準備をしなくても良くなる時がくるのでしょうが、それまでクリスマスを苦痛を感じながら大いに喜んで過ごすことになります。

正直に書きすぎたでしょうか・・・・・

31歳で逝った神学徒が残した書物

福島春太郎

この小書は明治39年生まれで、31歳で召された日本基督教会の牧師・福島春太郞「贖罪論」です。父の書斎から失敬して手元においた一冊ですが、当時、関心をもたれていた英米の神学者たちの贖罪論を批判的に整理してご自分のお考えを記しています。20歳代ですよ、お書きになったのは。すごい。

贖罪論で取り上げられている英米の神学者は James Denney, J.K.Mozley, P.T.Forsyth, W.R.Dale, J.Mc.Leod Campbell, R.C.Moberlyです。著者の立っている基盤はカルヴァンです。しかし、和解論の中では聖潔(聖化)の問題に関して、英米の神学者に感化を受けておられるからでしょうか、深い敬虔に根ざした漸進的聖化論を展開しておられます。

16世紀に印刷されたドイツ語聖書

15年前にドイツのアイゼナハ郊外のヴァルトブルク城を見物に行ったおりに、土産物店で売っていた16世紀に印刷された聖書の1頁です。

そのころは、東西ドイツが統一しまだ数年、アイゼナハの町も閑散としており、お金がなかったのでしょう、もったいないことですが古い聖書を解体して一枚いくら、で売っていました。

16世紀ドイツ語聖書断片昨年、訪れたときにはもう売っていませんでした。これは教会の私の執務スペースに飾ろうかなと思っています。

サーヴァント・リーダーシップ

この言葉を最初に聞いたのは、元資生堂社長の故池田氏からでした。当時、会社の経営方針として掲げておられたのでした。なんとなく分かった気分になっていましたが、後に、韓国の教会で同じ言葉で教会リーダーシップ論が取り上げられていることを知りました。

アメリカの教会が発祥のようですが、韓国ではセムナン教会(韓国における最初の教会で、社会の近代化をリードしてきた教会)のような歴史と伝統のある教会でも、盛んに取り入れているようです。

このたび、韓国監理教会(メソジスト教会)の協栄大学で神学を講じておられる先生のサーヴァント・リーダーシップ論が日本語に翻訳され、世に出る準備がなされています。本格的な書物のようですから、ぜひ、読んでみたいと思っています。

静岡説教塾

4年前に始まったそうです。静岡県の東海道線沿線の40代の牧師たちが中心のようです。

説教塾は25年ぐらいの歴史がありますが、わたしはその初期の時代のメンバーでした。30代後半から40代半ば頃のことです。昨日、中遠教会で静岡説教塾があるというので、出席しました。熱心な会でした。その情熱にふれて、嬉しく満足しました。

振り返ってみると40代のころが一番頭が働いていたようにおもいます。今は、バーベキューの墨で言うなら、燃え尽きる前の残りかすのようなものです。経験という燃えかすが、残り火をあつく覆ってしまっています。精神的には安定していますが・・・・

 

 

ノア約束の舟

を浜松TOHOシネマで観てきました。平日の午後ということもあるのでしょう。お客は4,5名で、ゆったりと鑑賞できました。

なかなかの映画だと思いました。聖書のノア物語を忠実に描いているわけではありませんが、定番のラブストーリーやスペクタクルがあり、現代的なさまざまなテーマが織り込まれているので、誰が観ても良い映画かと思います。

ただ、聖書を読んだことのない人には、分かりにくいところが多々あるかと思いました。たとえば、ノアに至る系図や、その家族のこと、聖書のストーリーが大胆に脚色されていること、また、ノア物語を超えて聖書のさまざまなシーンを連想させるところや、さりげない神学的な表現などです。

そして、主人公ノアが、義と愛の狭間で葛藤するのですが、現代という時代の苦悩に触れつつ、他方で、ノアの苦悩を通して「後悔し、心を痛められた」神の心境に迫ろうとしているということには、残念ですが、気づく人は少ないと思います。

自主規制

という言葉が適切かどうか分かりませんが、信教の自由をめぐる講演を聞きました。

ちょうどオウム真理教による松本サリン事件から20年。今になっては周知のことですが、事件当時、警察はオウム真理教に対しては疑いをもつことなく、捜査・取り締まりにいたらないで、その後の地下鉄サリン事件を許してしまうことになりました。このように宗教団体による反社会的行為を許してしまった背景には、憲法で保障されている信教の自由に基づいてなされる宗教法人に対する行政の対応に難しさがあるようです。それで、悪用されたり、オウム真理教の場合のように隠れ蓑となりかねないのです。

講師は講演の中で、宗教法人に対して行政が上から監督したり、信教の自由についてなんらかの規制が伴うような解釈を示すということは不適切で、不可能であるとした上で、宗教団体が下から社会的に規範となり、信仰の自由の適用をより適切なものとするための解釈作業をすべきではないかということを話されたのでした。

すなわち、信教の自由のもと、公益性を認められて宗教法人として優遇処置を受けている宗教団体が、それに相応しい宗教性とはどのようなものなのかを、それぞれが良く認識し、互いに確認し、社会に規範をしめしていく、そのような努力をしていかなければならないのではないかという問いかけをなさったのでした。

これはもっともなことだと思った次第です。宗教には良き宗教と悪しき宗教とがあります。良き宗教とは何か、その指標は何か、宗教者自身でその議論を深めていく必要がありましょう。

 

東京で久しぶだったこと

日本、韓国、台湾の教会による協議会が東京でありました。責任の一端を担っているので3泊4日で行ってきました(まだ協議会は続いていますが、日曜日の礼拝がありますから途中で失礼して浜松に帰ってきました)。

協議会のことはさておき、東京で久しぶりに見聞きしたことがあるので、書き留めておきたいと思います。

1, 「地下鉄・中野富士見町駅」に30年ぶりに降りました。その近くに10代後半から20代後半にかけて住んでいたので、懐かしかったです。

2,「すしざんまい」でランチを食べました。Bにぎり980円。まぐろ系でまとめたランチです。懐かしい味でした。

3,たくさんの人を見、たくさんの人とすれ違いました。やっぱり人が多いですね。

4,タクシーに乗りました。(浜松ではまだ乗る機会がありませんし、乗る必要もありません。)

5,銀座で食事をしました。魚料理のコース、値段は内諸です。銀座らしい少しオシャレな店でした。(浜松ではまだオシャレな店で食事をしていません。)

6,I牧師にお会いしました。80歳近くになられるのに、早く辞めすぎたと仰っておられました。私は牧師ができるのはせいぜい70歳代前半までだろうと思っているので、驚きです。

7,台湾のS牧師に会いました。相変わらず、元気で明るい。亡くなったお父さん先生は、台湾で初めてお会いしたときに、私を「お相撲さん」と言って歓迎してくださったのですが、その血筋をひいています。今回は奥さまにもお会いすることができました。

8,台湾のR牧師にお会いしました。先月、新会堂を献堂されたそうです。10階建ての大きな教会です。今回は、土曜日に一旦帰国し、月曜日にご近所の100名のご老人方と一緒に再来日されるとか。いつものように、飛行機をチャーターして、日本観光です。台北の下町でユニークな伝道を続けてこられた先生です。

9,韓国のK長老(女性)にお会いしました。80歳を過ぎてもお元気で、日本の教育に関心がおありで、教会で青年たちの指導をなさっておられます。

10,韓国のS牧師にお会いしました。東京神学大学に留学の経験がおありで、大きな教会の牧師を最後に隠退なさいましたが、老人ホームの理事長として、まだまだ、頑張っておられます。かつてより、ほんの少し、弱っておられます。

おまけに、もう一つ。久しぶりといのではないのですが・・・初めてお会いした韓国のZ姉妹は、なんと東海教区議長の奥さま、金牧師のお母様でした。娘には内緒で来日されたとか。金牧師よりも優しいお人柄とお見受けしました。内諸です。

教区婦人研修会

浜名湖ロイヤルホテルで行われました。360名近くの参加でした。講師は金城学院の深井智明教授。わかりやすく、興味深い講演でした。

深井氏は20世紀初頭のヨーロッパ神学を専門とする神学者で、哲学の分野でも注目されています。20世紀神学といえばK.バルトですが、氏の専門はバルト以前のヨーロッパ神学、正確には19世紀から20世紀にかけてということです。その時代の神学はK.バルトによっておおいに批判され、その影響を受けた私たちの世代は関心の薄い分野でしたが、最近、見直されてきているようです。キリスト教の弁証という観点から、私も学んでみようかと思い始めています。

深井氏の講演は、その専門分野の難しい話は一言も出ませんでした。キリスト教の救いの教えを新約聖書のコロサイの信徒への手紙を手がかりに、「和解」と「新しい人」という表現で、わかりやすく、興味深く話されたのですが、その中に溶け込んでいたのでしょう。好感を持ちました。

婦人研修会は私のような男性牧師にとっては、気楽に参加できて有り難い会です。懐かしい方々にもお会いしました。大阪時代に牧師有志による勉強会を盛んにしましたが、家族ぐるみでの交流もありました。北信のK牧師夫妻はそのお仲間でした。互いに年齢を重ねましたが、若い頃の交わりと学びが、今日にいたるまでの肥やしになっているなあ、と改めて思いました。

その他、18年ぶりにお会いできた方々が多くおられました。お元気な姿に、嬉しくなったことでした。

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