隠退のとき

いますぐ隠退するという話ではないが、最近、いつ隠退したら良いのかということを時々考えるようになった。

68歳説というのがある。その説を唱える人は、その歳になると多くの人はダブルブッキングするようになるので。そうなったら隠退したほうが良いというのである。統計学的な根拠がある話ではないが、なんとなく、そんな感じもする。

私の判断基準。それは・・・

60を過ぎて歳をとるということがこういうことかと分かったことが一つある。自分の心と脳の視界が狭くなり自分の考えていることが最善と思い込むようになるということである。自戒しなければならないと思っているので、まだ軽症だと勝手に判断している。だが、これに関しては客観的に自分で自分を観ることが出来ない。

誰かに頼んで、その時には「重傷だよ」と言ってもらうようにしよう。その時は隠退。

気が小さいと

わたしは気が小さい。

20代に初めて歯医者に行った。ジーという音が近づき、口のなかに器具が入ろうとするそととき、「先生、わたし初めてなんです」と口走ったのを思い出す。

気が小さいということは、思いがけない言葉を発することになる。

段ボール

普段、なにげなくお世話になっている段ボールだが、ある会合で段ボールでできた棺があるということを聞いた。安価なものだがしっかりとしているという。へえ、すごい。段ボールは侮れないものだと思った。

だが・・・・・わたしにはちょっと不安がある。それが何キログラムまで耐えられるのものなのか、ちゃんと調べなければならない。

パースペクティブ

私が身近にパースペクティブという語を聞いたのは20年ほど前のことだった。説教塾でK先生が説教におけるパースペクティブという問題を提起された。その語の意味をすくに理解した同僚牧師はほとんどいなかったと思う。今なお不透明であるが、聖書テキストがもつ神学的視野、説教黙想の視界、心に映し出される説教の造形などを表現する語なのかなと勝手に考えている。

この語は絵画の遠近法、透視図法の意で、目に映る像を平面に正確に写すための技法として一般に知られているが、最近、カメラのあるクチコミ掲示板で画角と遠近感等をめぐって話題になっているのを知った。議論は混乱している。それを読んで、立体的なものを人間の眼とは違って、レンズを通して一枚の平面上の写真に写し取ることが、あるいは、人間の眼に映る像というものが、そんなに単純なことではないのだなということが分かった。

パースペクティブ、分かって分からない語が、事柄の奥行きの深さへと誘う。

D600の噂

しばらく前から、ニコンD600が今夏にも発売になるのではないかとの噂が流れている。FX(フルサイズ)の廉価版で、軽量・小型化がはかられているようだ。FX機にバリエーションが増え。誰もが気楽に使えるようになる。

この噂が本当ならば、たぶん本当だと思うし、予想した通りだったのであるが、わたし個人としてはDX機を離れてFX機に全面移行することになると思う。

レベルが高い

昨夜は早く寝たので午前3時に目が覚めた。テレビでユーロ2012を観た。B組のポルトガルーオランダ戦とデンマークードイツ戦が同時に放映しており、4カ国とも決勝トーナメントへの可能性を残しての予選最終戦だ。

勝負には勝ち負けがつきものだ。ポルトガルとドイツがそれぞれ勝利し、あのオランダが3連敗で敗退という結果に。それは結果で、4カ国は互いに譲らず互角の戦いだった。レベルが高い。面白い。楽しかった。

あっ、ニコ爺さんだ

立川教会のY牧師就任式に出席した。良い就任式だった。式後、記念写真が。

歳はおいくつだろう。たぶん、私よりも年配でいらっしゃる。ニコンのデジ一で撮ってくださった。扱い慣れておられる。私と同じニコ爺さん。親しみを感じた。

昨日の説教 マタイ6章25以下

「思い悩むな」との主のお言葉。

24節の「神と富とにかね仕えることはできない」との言葉に導かれて綴られている。思い煩う人生だが神の御手のもとにあるのだということを教えられる。「空の鳥」「野の花」も、そして、わたしたちも。

その私たちの日々の労苦は、主のお言葉の中では隠れている。隠れて良いのだ。神の御手のもとに隠れてこそ「十分」なものとなる。

ついでにもうひとつ

やはり30前後のこと。
お金を無心するために、2、3ヶ月ごとに教会にやってくる長身の男がいた。乱暴な物言いで、珍しいタイプだった。
2回に一度くらい、少額をあげたと思う。
ある時、いつもに増して脅すような口調でお金を無心するので、「帰れ」とこちらも怒鳴って断った。ところがこの男、帰り際に教会のドアを強く蹴とばして去って行ったのである。ドアは壊れてしまった。

ところが、4年後のこと、私が転任して大阪の教会に赴任したのだが、この男、そこに現れたのである。しかし、私のことを覚えてはいない。
後から、分かったことだが、この男、四国の高知から大阪まで、教会を渡り歩いていたのである。いちいち牧師の顔を覚えておれないほど、たくさんの教会を訪ねていたのだ。

思い出した

まだ30になるかならないころのこと、お金を貸してくれとたびたび訪れる初老の人がいた。
決まって求めるのは500円。当時、仕えていた教会には少額であればそのために用いてもよいファンドがあり、何度か差し上げた。

ところが、ある時、頻繁に来るようになったので、今日はダメだと言って断った。翌日のこと、テレビの地方局のニュースで隣町で起こった事件が報じられた。
「タバコ屋さんに強盗に入った初老の男性が、お店のお祖母さんを脅してお金を奪って逃走、逮捕された。犯人が奪ったのは500円。」

凄惨な事件とMさんのこと

二人の方が亡くなった。まことにお気の毒なことであった。

犯人だが、刑務所から出所後、行き場がなく、死のうと思ったが死にきれず、死刑になれば死ぬことができるというので犯行に及んだ、と報じられている。

いろいろなことを考えさせられる事件である。

もう亡くなった方だが、長年、出所後の方々の社会復帰のために尽力されたMさんのことを思い出した。
小さな会社を経営し、出所後の方々が社会復帰できるまで仕事を与えて面倒をみられた。その数が三桁にもなった。80歳を過ぎて最後に引き受けたのは、少年院を出た青年だった。Mさんに連れられてその青年を引き受けに行ったことを思い出す。
Mさんの働きに、あらためて頭がさがる。

湯河原で協議会

二つの教団(教派)が毎年行っている宣教協議会に出席した。
伝道がテーマで神学的な講演と大阪釜ヶ崎でのホームレス伝道のケーススタディーがあった。興味深く伺った。
前者も後者も共通していたことは、贖罪信仰の重要性であった。

明日の説教

マタイ福音書5章43以下。
「隣人を愛し、敵を憎め」とはレビ記19章の律法を解釈した言葉。主イエスは「敵を愛し、迫害するもののために祈れ」と教えられたら。
悪意をぶつける隣人、不利益をもたらす隣人。その隣人を愛することは不可能である。しかし、主イエスは祈るようにと言われ、そこに隣人を愛する道があると仰せになっておられる。
祈るとはありのままの自分を、善人にも悪人にも太陽を昇らせ雨を降らせる神に見ていただくことだと思う。