がっかりしたことが一つ

平和を求める祈り、が常議員会で可決されたようだ。文面を見て、がっかりしてしまった。これが、教会で共に祈る、教会の祈りだろうかと、目を疑った。

決まり文句の戦争責任告白と、罪の告白が、最初と最後に、短く取り上げられているが、中身は、政治的イシューに引っ張られていて、昨今の政治状況に反応しているだけで、今日の世界が背負っている苦悩や困窮についての洞察も、深い嘆きも、神の義と平和と愛による支配(神の国)への祈求もない。神への賛美もなく、祈りの背後に霊性が感じられない。軽率で、政治的アディテーションにすぎないような祈りだ。

私は、その祈りを共に祈りましょう、とは言えない。紹介することもできない。

mood

ある心理的な雰囲気を mood という言葉で言い表すとすると、現代は mood を盛んに作り出そうとする時代ではないかと思います。

大衆消費社会だからでしょうか。また、政党も、マス・メディアも権力争いとしての政治に関心が傾き、いたずらに世論(これも mood です)を操作したり、根無し草の世論づくりに走ります。ソーシャル・ネットワークもそのための質の悪い道具となってしまっているような感を受けます。

ヘイト・スピーチなどは、一見、平気で嫌われることをしているように思われるのですが、社会に対抗的な mood を作り出すことで、人間のもつさまざまな悪意や愚かさ(その心理)を刺激し、操作可能な状況を生み出すことに一役買っていると、私は思っています。

mood を煽る一切のことに対して、嫌悪感を感じているこの頃です。mood に対抗して mood はいけません。

-ism

神学の分野で ism に対する警戒を唱えたのは K.Barth だと思う。それは、ややもすると絶対化、偶像化するからです。危機神学は -ism との戦いでもあったのだと思います。

若い時、同学年のバルティアンが、盛んに -ism に対する嫌悪を言葉に出していたのを思い出します。私たちは共に、その -ism を大切にする教派に属していましたので身近な問題でもありました。彼は今、某書店の社長をしています。

-ism に対して神経質になりすぎることも、それも一種の -ism ですから気をつけなければなりませんが、-ism に対して批判的な目を養うことは大切なことだと思います。

安保関連法案

法案を読んでみました。素人には法律を読むことは決して易しいことではありませんが、国連平和活動や国際平和活動で軍事的にも出来うる限りの積極的な関与を可能にし、アメリカ合衆国との軍事同盟においては役割の拡大をはかるというのが関連法案の主旨だということが分りました。

安保法制を整えるというのは政治の責任ですが、関連法案は解釈と適用・運用次第では憲法違反になると思います。ですから、関連法案自体が憲法違反であるということもできましょう。ただ、解釈と適用・運用が憲法違反にならないようにしている、ならないようにするというのが政府の主張のようですね。

その意味では、関連法案によってただちに憲法が無力となってしまうということにはならないのだと思います。まして、関連法案が憲法の上に立つことはあり得ませんから(あってはなりません)、憲法が関連法案の解釈と適用・運用に歯止めとして存在しているということになるかと思います。

法案が戦争をするわけではありません、国際状況と政策如何によります。その状況が何を強いるか、そして、それに政策的にどのように対応するのかが課題となります。平和を希求しつつ、腰を据えた議論が大切だと思います。

熱中症直前?

12日は湿度が高く暑かった。初めて体験したが、もしかしたら熱中症直前だったかも知れない。寝不足で明らかに水分をとること少なく、牧師の服装で過ごしていた。火に包まれている感じなのだ。

朝の礼拝中、ボーっとしていたし、終わると用事で隣の教会に歩いて赴き、なんとが責任を果たして一度帰宅。少し休んで、再び隣の教会に。歩いて3,4分のことだが、車で行った。

思い出した

説教塾という勉強グループがある。もう20年前になるだろうか。八王子セミナーハウスで、例のごとく泊まりがけで説教セミナーが開かれた。そのとき、大学生のグループがいくつかセミナーを行っており、、掲示板に書かれていた我々の「説教塾」という名称に、首をかしげたり、クスクス笑ったりと、不思議そうに眺めていたのを思います。

お小言をいうお説教のことを思い浮かべて、そのための塾があるなんで信じられないという反応だった。なるほど、一般の人には何のことか分からないだろう。

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その時、

牧師が教会を辞することを決め、役員会に申し出るということは、重大事項です。そして、その時の、たった一つの理由は、それが召命に応答する歩みであるとの確信が与えられたということです。

これは牧師の召命に関わることで、教会はそのことを受け止めていただく他はありません。また、辞意を表明して、それを翻すということもあってはなりません。そう思います。

牧師は牧師として教会に仕え、教会の徳が高められることを願って務めにあたっています。辞任をするときも同じです。もちろん、個教会のことだけではなく全体教会のことも牧師の責任の範囲ですから、そのことも考慮に含まれます。その上で、辞任が召命に応答する歩みであるとの確信が与えられて、その旨を教会に申し出ます。

その時、さまざまなことが考慮されます。公にできる理由もありますし、それが、本筋ですが、公には決してしない理由も内在します。一切を神に委ね、与えられた務めを終えて、教会を離れます。

辞任する牧師の心境をいろいろと詮索する人がおられます。その多くは人間的な基準から判断して、牧師はあのこと、このことで、悩まされていたのではないかとか、教会や教会員に対して不満が大きくなったのではないか、などという種類のものです。もちろん、牧師も一人の人間ですし、教会も人間の集団ですから、その中で様々な思いを抱くものです。それは、日々の歩みにおいて常なることです。しかし、分かっていただきたいことは、牧師は自分の誉や名誉を考えて物事を判断しません。そのような誘惑にかられることはありますが、そうであってはならないのです。繰り返しますが、教会の徳が高められるかどうかということです。

そのうえで、牧師として決断にいたったこと。それは召命に応答する歩みなのだということを受け止めていただきたいのです。時に、牧師の身勝手と感じることもあるかも知れません。私たちのことを見捨てたのかと思うこともあるかも知れません。そのような人間的な想いを抱くのは当然のことかも知れませんが、それ以上のことが、教会にはあるのです。

それ以上のことに、教会人は仕えているのだと思います。

こんなことを口にしたことはないのです、言いたい気分になったので書きました。失礼しました。