これが正しい言い回しのようです。
ずいぶん前に「実用 ことわざ便覧」(小桜書房)という小辞典を購入したが、ずっと「つんどく」「おかくれ」状態でした。引っ越し準備のために書棚を整理しはじめて再発見。適当に読んで見ようかと手元に置くことにしました。
さりげなく開いたページの頭に、この諺が。いやはや、ぴったりなので、妙に感激しました。
ちなみに、そのページの最後には「屋上、屋を架す」(むだなこと、よけいなことをすること。)が載っておりました。そうならないように、したいものです。
これが正しい言い回しのようです。
ずいぶん前に「実用 ことわざ便覧」(小桜書房)という小辞典を購入したが、ずっと「つんどく」「おかくれ」状態でした。引っ越し準備のために書棚を整理しはじめて再発見。適当に読んで見ようかと手元に置くことにしました。
さりげなく開いたページの頭に、この諺が。いやはや、ぴったりなので、妙に感激しました。
ちなみに、そのページの最後には「屋上、屋を架す」(むだなこと、よけいなことをすること。)が載っておりました。そうならないように、したいものです。
二つの会合に出席。
一つは支区の一泊教師会、もう一つは更新伝道会の一泊研修会。後者では講演という名の発題で、「This Holy Mistery 合同メソジスト教会の聖餐式に関する見解」を、慣れないことだが翻訳して、解説を加え、ポイントとなる事柄を提示するということで、 役目を果たさせていただいた。
宿泊した施設では、トリニティーアーツという会社の新入社員研修も行われていた。トリニティーという語が一般に使われるようになったが、キリスト教では、かつて300年もの年月をかけて告白に至った語である。
一泊教師会ではある少人数による聖書の学びのグループについての紹介がなされ、学ぶ機会を与えられんた。聖書テキストに注意深く接近し、かつ、黙想へと至るという試みである。その方法論に共感する部分もあったが、教導的色合いが強いかなという印象を持った。
私のような使い方だと、ノートパソコンは必要ありません。文章を打ち込む程度だからです。もちろん、それ以上のこともしますが、その時には家にあるPCで作業をします。
このところ、windowsタブレットが充実してきました。わたしはワープロソフトの一太郎を太郎の時代から愛用してきたので、文書データがたくさん残っています。で、一太郎は必須です。それと外出先で長時間使うこともあるのでバッテリー持続時間が長くないといけません。そして、携帯性です。
この条件を最大限満たしてくれるのがASUSのT100TAというwindows8.1タブレットです。CPUは廉価なものですが、能力は高く、この手のタブレットは飛躍的に良くなっています。キーボード付きですが、本体と分離することができます。もひろん安価です。ということで購入しました。
方言指導と合同教会論に共通性がある、ということをソウルから一時帰国したN宣教師に話したら、韓国語の聖書では「異言」が「方言」と訳されていると教えてくれた。
面白いと思ったので、ちょっと調べてみようかと思っているところです。
このところ、今まで馴染みのなかった業界の方々とお付き合いせねばならなくなり、困っているところです。その話はここには書けないのです。困っているというのは、あまり役に立ちそうもない、ということと、時間配分です。牧師の仕事を知らない方々とのお付き合いだからです。
それはさておき、昨日、残念なことがありました。韓国の永楽教会で、おや、すごい、「えいらく」と入力したら「永楽教会(ヨンラク キョウヘイ)」が変換候補の一番にあらわれました、その永楽教会で行なわれた国際フォーラムで知り合いになったベトナムの牧師先生が成田経由でアメリカに行かれたようです。私のことを思い出してくださって、成田空港からFacebookで「会いたい」と連絡してくれました。ところがそれに気づいたのは、飛行機の離陸2時間前。さすがに間に合いません。こんかいは、そういうことで残念でした。
ベトナムには一度行ったことがありますが、いつか、この先生の教会を訪ねてみたいと思っています。
と言っても、買っては捨て病です。
10.1インチのASUS製windows8.1タブレットです。バッテリー持続時間が公称15時間。ハードディスク内蔵のキーボードと合体させると7.5時間。量販店で触ってみましたがCPUは決して上等なものではないようですが、快適に動きます。タブレットとキーボードが分離できて、Office付きです。私必須の一太郎とBibleworksをインストールすれば、文句なしです。
外出時は、これで決まりました。
直前の投稿の続きです。方言指導の話から、合同教会形成について考えさせられました。
故北森嘉蔵先生は、教派というのは角度の違いから生じている、ということを言われました。どの教派も、まちがいなく教会である。しかし、異なった教派が存在し、時には、対立もする。それは、ある教派は正しく、ある教派は教会として間違っているといううことではなく、福音(その伝達体である聖なる公同の教会)に接する角度の違いだというのです。
言うなれば、教派はそれぞれの方言で福音を共有しているということです。方言の集合、それが合同教会ですが、そこに、豊かさもあり、難しさもあるということでしょう。
自家の信仰理解を主張すると、他の伝統とは争いになると考えがちです。方言の違いが、違いとして残ってしまう。それで、合同教会においては自家方言を主張しないという抑制が働きます。しかし、はたしてそれで豊かな合同教会が形成されるでしょうか。はなはだ疑問です。皆が、自分の方言で発語できなければ、根無し草になってしまい、その信仰は借りものになってしまうのではないでしょうか。
エキュメニカルな議論を意識しつつ、自家の理解を明確に表現することが大切なのかもしれません。自家の方言を、他者に充分に理解してもらえるように、台詞を選ぶ。その互いの努力が合同教会形成には必要なことですね。
4月から某テレビ局で放送される連続ドラマで、出演者に方言指導をなさっている方にお会いした。ご自身、ベテラン役者で、一葉の一人芝居と取り組んでおられる方である。
方言指導というのは、ただある地方の方言・発音を正しく発声するようにと役者さんを指導するということではないそうです。だいたい、どんな優れた役者でも、自分が身につけている言葉と違う方言を、あたかも自分の言葉であるかのように正しく発声することは不可能で、それでも、身についた言葉で、心の底から発している、その不可能になるべく近づくように役者に演技をしてもらわなければならない。そのためには、発音・発声しやすい言い回しを見つけて台詞を工夫するようにしているのだとか。方言指導の奥の深さの一端を伺った。
話を伺いながら、2つのことが思い浮かびました。1つは、私が関西弁を使うと大阪出身の家内が不快に感じて、いつも、怒るということです。自分では正しく発音しているつもりでも、家内はそれを関西弁とは認めることができす、それだけではなくて、関西弁が、ひいては関西人が侮られているように感じてしまうようなのです。
2つは、教会の牧師が説教にたずさわるときの留意点です。説教者は聖書の言葉を説き明かすのに、先人の言葉に学びながら準備をしますが、何を目指しているかというと、目の前の聴衆の心に聖書の言葉が届くということです。その人の血となり肉となるということです。そこに、説教者の存在理由があります。そのための取り組みは、方言指導と共通点があるように思われたのです。
名説教者として知られている先輩牧師が、ある時、地方の某教会に招かれて説教した。とっておきの説教をなさったのです。しかし、初めての経験だけれども、その時は、聴衆に受け入れられなかった。そう言われたことがありました。そんなことがあるのですね。たぶん、その教会の人々の言葉とかみ合わなかったのではないでしょうか。言語・方言というだけではなく、日ごろその教会で説教をしておられる牧師が優れた方で、その言葉の世界に養われた方々には、違和感を与えた、ということではないかと思います。