4月から某テレビ局で放送される連続ドラマで、出演者に方言指導をなさっている方にお会いした。ご自身、ベテラン役者で、一葉の一人芝居と取り組んでおられる方である。
方言指導というのは、ただある地方の方言・発音を正しく発声するようにと役者さんを指導するということではないそうです。だいたい、どんな優れた役者でも、自分が身につけている言葉と違う方言を、あたかも自分の言葉であるかのように正しく発声することは不可能で、それでも、身についた言葉で、心の底から発している、その不可能になるべく近づくように役者に演技をしてもらわなければならない。そのためには、発音・発声しやすい言い回しを見つけて台詞を工夫するようにしているのだとか。方言指導の奥の深さの一端を伺った。
話を伺いながら、2つのことが思い浮かびました。1つは、私が関西弁を使うと大阪出身の家内が不快に感じて、いつも、怒るということです。自分では正しく発音しているつもりでも、家内はそれを関西弁とは認めることができす、それだけではなくて、関西弁が、ひいては関西人が侮られているように感じてしまうようなのです。
2つは、教会の牧師が説教にたずさわるときの留意点です。説教者は聖書の言葉を説き明かすのに、先人の言葉に学びながら準備をしますが、何を目指しているかというと、目の前の聴衆の心に聖書の言葉が届くということです。その人の血となり肉となるということです。そこに、説教者の存在理由があります。そのための取り組みは、方言指導と共通点があるように思われたのです。
名説教者として知られている先輩牧師が、ある時、地方の某教会に招かれて説教した。とっておきの説教をなさったのです。しかし、初めての経験だけれども、その時は、聴衆に受け入れられなかった。そう言われたことがありました。そんなことがあるのですね。たぶん、その教会の人々の言葉とかみ合わなかったのではないでしょうか。言語・方言というだけではなく、日ごろその教会で説教をしておられる牧師が優れた方で、その言葉の世界に養われた方々には、違和感を与えた、ということではないかと思います。