Twitter の勧めを、お年寄りに

お年寄りの方々へ、私も年寄りですが、Twitterでのツィートの勧め。をしたいな、と思っています。理由は、楽しく愉快に日々を過ごすためにです。

Twitterでは日々の思いや記憶を記録し(日記のように)、それを表現して、関心を同じくする人たちとの緩やかなつながりを得ることができます。これは若い人たちの専売(購買)特許ではありません。お年寄りにとってこそ、有用なものだと思います。
(以下に、twitterしている人にとっては当たり前のことですが、参考にtwitterの楽しみの一例を書きます。)

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涵養

哲学者の國分功一郎さんの朝日新聞への寄稿の中に「人物の涵養」という表現を見出しました。以下、引用です。

民主主義における平等にはもう一つ別の側面がある。平等に与えられた権利にふさわしくあるよう、自らの言葉や考えを鍛え上げることが期待されるという側面である。アレント(注:ハンナ・アレント、現代ドイツの哲学者)は古代ギリシアの民主政を参照しながら平等と同等を区別し、後者の重要性を強調した(『活動的生』)。民主主義は民衆に、政治参加の権利を行使するにふさわしい水準の者どもと同等の存在になろうとすることを求める。だから民主主義社会では、教育による人物の涵養(かんよう)や報道による情報提供の必要性を誰も否定しない。

民主主義が成り立つためには、教育によってそれに参与するに相応しい人物を育むことと、良質な情報の提供が不可欠であると述べておられるわけです。

私は、「人物の涵養」という言い回しにここで初めて出会いました。もちろん、「霊性の涵養」という言い回しには馴染みがありました。それはキリスト教的背景のもとで語られていることです。「霊性」とは私の理解では、絶対他者である神による義と愛と平和によるご支配(すなわち神の国)を待望しつつ、それに向かって身を向け、かつ持続的にそこに向かい、牽引することができる気質のことです。

いずれにしても、それが培われるには雨が土の中に染み込んで、長い年月を経て帯水層を成すように(それが涵養という意味ですね)、長い年月を要する育みによるということです。その育みは良き伝統を継承し、さらに伝統を形成し続けようとする社会があってのことでありましょう。現代社会のように、経済中心で、移り変わりの激しい消費社会においては不可能なことなのかも知れません。民主主義の危機ということが言われているとすれば、そのあたりのことに深層があるのかも知れません。