今年も、もうすぐ終戦’敗戦)記念日を迎えようとしています。悲惨のはての終戦でした。
月別アーカイブ: 2014年7月
またしても、失笑
先週の土曜日はすごい雷でした。あんな雷は何年ぶりでしょうか。
それで、あるところでこんな話をしました。「すごい雷でしたね。お臍が取られたのではないかと心配になり、後でお腹をしらべたのですが、わたしのお臍はお腹の中に深く隠れていました。わたしのお臍はどんな雷がきても大丈夫だったのです。取り越し苦労、心配無用なのでした。」
やってしまいました。失笑です。ははー
柳家小三治
が人間国宝に選ばれたというニュースが流れました。
わたしの愛する(故)小さんのお弟子です。30年ほど前、良くその落語をききました。好きな落語家のひとりです。大家となった今も「小三治」なのですね。良いなあと思います。
モーツァルトと写真
良い写真を撮るためには演歌ではなくモーツァルトでないとダメだというお話しを聞きました。奥の深い話です。
そこで思い出したのは、20世紀最大の神学者K.バルトのモーツァルト論です。モーツァルト生誕200年を記念して1956年にチューリッヒのツオリコン社からKarl Barth:Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1956を公にしています。モーツァルトがカトリック教会で育ち、その感化のもとにあったのですが、すなわち、バルトの神学とは方向の違う宗教性を身につけていたのですが、バルトはその音楽をこよなく愛する人であったのでした。それで、出版社から請われてモーツァルトのこと、そして、その音楽への愛を綴ったのでした。
邦訳が小塩節さんによってなされ、新教出版社から「バルト著 モーツァルト」(1957年)として出版されています。
バルトはこう記しています。「その音楽は、ことすべて明らかなるかのいと高きところより来たる。人の世の両面、そしてまた歓喜と苦悩、善悪、生死が共にありのままに、しかしその制限をうけたままの姿で、この高みからは洞察されている。」
また、「モーツァルトの大きく自由な、物に即した即物性(ザッハリヒカイト)とでも呼びたい(態度)」について語っています。ザッハリヒカイトという言葉が印象深いのですが、「生活上の大小の経験(=物)とはまったく無縁に(→しかし、即して)、繰り返し、かわることなく彼の生きている音のコスモスの一片をして、形あらしめようと(ザッハリヒカイト)」しているというのです。そして、そこから生まれるものは、「昔も今も変わりなく、自分一人の主観という蝸牛の殻から、さあ何とかして、少しでもいいから出てこい、といつもそういう聴衆への招きの声であって、今日までその招きに変わりはないのである。」
サーヴァント・リーダーシップ
この言葉を最初に聞いたのは、元資生堂社長の故池田氏からでした。当時、会社の経営方針として掲げておられたのでした。なんとなく分かった気分になっていましたが、後に、韓国の教会で同じ言葉で教会リーダーシップ論が取り上げられていることを知りました。
アメリカの教会が発祥のようですが、韓国ではセムナン教会(韓国における最初の教会で、社会の近代化をリードしてきた教会)のような歴史と伝統のある教会でも、盛んに取り入れているようです。
このたび、韓国監理教会(メソジスト教会)の協栄大学で神学を講じておられる先生のサーヴァント・リーダーシップ論が日本語に翻訳され、世に出る準備がなされています。本格的な書物のようですから、ぜひ、読んでみたいと思っています。
静岡説教塾
4年前に始まったそうです。静岡県の東海道線沿線の40代の牧師たちが中心のようです。
説教塾は25年ぐらいの歴史がありますが、わたしはその初期の時代のメンバーでした。30代後半から40代半ば頃のことです。昨日、中遠教会で静岡説教塾があるというので、出席しました。熱心な会でした。その情熱にふれて、嬉しく満足しました。
振り返ってみると40代のころが一番頭が働いていたようにおもいます。今は、バーベキューの墨で言うなら、燃え尽きる前の残りかすのようなものです。経験という燃えかすが、残り火をあつく覆ってしまっています。精神的には安定していますが・・・・
ノア約束の舟
を浜松TOHOシネマで観てきました。平日の午後ということもあるのでしょう。お客は4,5名で、ゆったりと鑑賞できました。
なかなかの映画だと思いました。聖書のノア物語を忠実に描いているわけではありませんが、定番のラブストーリーやスペクタクルがあり、現代的なさまざまなテーマが織り込まれているので、誰が観ても良い映画かと思います。
ただ、聖書を読んだことのない人には、分かりにくいところが多々あるかと思いました。たとえば、ノアに至る系図や、その家族のこと、聖書のストーリーが大胆に脚色されていること、また、ノア物語を超えて聖書のさまざまなシーンを連想させるところや、さりげない神学的な表現などです。
そして、主人公ノアが、義と愛の狭間で葛藤するのですが、現代という時代の苦悩に触れつつ、他方で、ノアの苦悩を通して「後悔し、心を痛められた」神の心境に迫ろうとしているということには、残念ですが、気づく人は少ないと思います。