ちょっとした志し

2015年になったら「27mmの浜松」という括りで写真を撮っていこうと一念発起しました。 眠っている1シリーズのNikonJ3と単焦点レンズ10mmf2.8を大きな蔵?から出して活用し、これを持ち歩いて、行く先々でスナップを撮っていこうというわけです。

Nikonの1シリーズというのは、1インチセンサーを使った小さなレンズ交換式カメラです。で、そのシリーズに対応したレンズは10mmというと、普通のカメラで言うと27mmに相当します。それで、「27mmの浜松」ということになります。ほんの少しワイドなレンズと言えば良いと思います。

実は、「新浜松紀行」というサイトを立ち上げているので、そこに撮った写真を載せていこうかと思っています。目にとまったものを、無造作に撮るだけですから、たいした写真にはなりませんが、へえー、こんな所もあるんだと、浜松の街を知っていただければ良いかなと思っているのです。

大いに同感したこと

友人が誕生日なので、「おめでとう」と伝えたら、「お互いこれいいじょう痩せないようにしよう」と返信が。うん、そうだそうだと大いに同感しました。

思い出した

何年前だっただろうか。10数年は経ったと思います。クリスマス主日礼拝、イブ讃美礼拝、降誕後第一主日礼拝を縫うように挟んで葬儀が4つ続いたことがありました。

クリスマスの諸集会と3つめの葬儀もすみ、葬場でこれで最後だと火葬の終わるのを待っていたとき、O姉が召されたとの知らせを受けたその時のことを思い出しました。忘れることができません。力尽きる寸前、これでやっと一息つける、その矢先のこと。正直、もう勘弁してくださいと心の中で呟きました。

よくやったものだと思います。私もそうだけれども、委員長のK姉をはじめ教会の慶弔委員の方々、そして、家内もです。

なぜ思い出したかと言うと、今年は24日の燭火讃美礼拝に引き続き、25日に葬儀を行うこととなったからです。いま、その準備中です。息抜きに、この投稿を書いています。

ケーキとシュトーレン

今日は子どもたちとのクリスマス会でした。予定より参加者が多くなり、嬉しいことでしたが、用意していたケーキが足りず、大人は、シュトーレンをいただきました。

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嘆いてはいるが

寒い寒いと嘆いてはいるが、あと何回冬を越せるのだろうかと考えると、愛おしくなります。そうだ、温かい、美味しいものを食べて太ることにしよう。

土に一体化するイエス

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有名な?ヨース・ファン・クレーフェ(1485ー1540年)の『降誕』、ウィーン美術史美術館所蔵です。土の上に産み落とされたイエスがその周囲に光を放っている。

天につける者でありながら、大地という低いところに自らを落とし、土(アダマー)から造られた人間(アダム)と同じ姿になられたと告げています。

小羊学園マルカートでのクリスマス

知的障害者の通所施設です。クリスマス会がありました。わたしは礼拝で三人の博士のお話をしました。小羊学園本体とはちがって障害が比較的小さい方々が多くおられます。お話しが分かったかどうか分かりませんが、静かに聞いてくださいました。

礼拝が終わると、楽しいプログラムが用意されていて、施設利用者の方々はリラックスして楽しそうでした。三人の女性サンタさんは魅惑倶楽部(エキゾチッククラブ)の皆さんです。楽しいアクションソングを歌ってくれました。

場所は南区役所の横です。周囲は津波の心配からでしょうか、閑散としています。施設はその津波の避難場所として作られたビルの中にあります。

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浜響第77回定期演奏会

今日、午後2時からアクトシティー大ホールで行われました。

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ピアノのケマル・ゲキチさんという方はクロアチアご出身で、リストの第一人者として不動の地位を築いた方のようです。ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番二短調作品30を演奏されました。なかなかの演奏でした。これぞピアノフォルテと呼ばれる楽器だと思わされました。圧巻でした。

浜響はいずれも難しい曲に挑戦されました。最初にグリンカの歌劇「ルスランとリュドミラ」序曲、次に上記のラフマニノフ、最後がチャイコフスキーの交響曲第4番ヘ短調作品36です。よく演奏されたと思います。

指揮者の柴田真郁(マイク)さんは、わたしは初めてでした。まだ30歳代の新進気鋭の方です。美男子で、どうも、東京から追っかけの方々がたくさん来ておられたようです。

日曜日の午後に、このような演奏を聴くことができて、有り難かったです。感謝、感謝。

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まったく音の出ないサイレントモードで、かつ、液晶に何も表示されない設定で、私の胸のあたりでファインダーも覗かずに撮りました。ちなみに、カメラはNikon1 V2です。

多弁になれるとき、寡黙になるとき

趣味が下手な写真なので、いくつかカメラを持っています。みな愛機です。それぞれのカメラについて良いところ、改善してほしいところ、特徴や使い勝手の感想など、頭の中にいっぱい溜まっています。話せといえば、いくらでも話すことが出来るはずですが・・・・・・そうはいかないというお話しです。

他人様の前で、多弁になれるのは、安価でごく一般的なカメラについてです。ちょっと偉そうに、なんの躊躇もなく言葉数多く語ってしまうかもしれません。しかし、語ることができないケースがあります。寡黙にならざるを得ない場合です。それは、セミプロ用で、もしかしたらプロも使うかもしれない、ちょっと高価なカメラの場合です。

私の腕が寡黙にさせます。

ネットで落語が聴ける

すごいですねインターネットは。落語を聴くことができます。動画でアップされている最近の方から、白黒写真しか残っていない昔の大御所までです。

30歳前後の頃ですが、寄席などに落語を聴きにいくだけではなくて、テープに録音された噺をよく聴きました。つい、最近までテープコレクションを保持していたのですが、ずいぶん古くなってしまったこともあり、引っ越しをきっかけに処分しました。

しかし、有り難いことにネットで聴くことができます。その数は、かつての私のテープコレクションを上回ります。近くに寄席がありませんから、有り難いことです。

代表的なサイトです。

ちょっと苦痛なクリスマス

クリスマスが苦痛なのではありません。いや、ちょっと待ってください、食べ過ぎてしまうので苦痛を感じることがありますね・・・でも、クリスマスが嫌なのではなく、嬉しい季節ですが、

私にとって苦痛を感じることが、実は、あるのです。それは、毎年毎年、クリスマスの説教を準備しなければならないということです。少なくとも毎年4,5回、多いときには10回ぐらいするときもあります。それを何年続けてきたでしょう。28歳のときからですから、36年になります。

説教の準備が辛いと感じるのは、事柄が大きすぎてその大きさに圧倒されるだけで、わたしのどんな言葉も貧しいからです。

いつの日か、説教の準備をしなくても良くなる時がくるのでしょうが、それまでクリスマスを苦痛を感じながら大いに喜んで過ごすことになります。

正直に書きすぎたでしょうか・・・・・

寒さに耐えています

17℃より低い温度に身を置いて過ごすと、体温を維持しようと体内の脂肪が燃やされて自然に痩せる、という話を家内が聞いてきて、私に勧めるのです。

それで部屋の暖房はスイッチ・オフです。今日は寒い日ですが耐えています。この調子で冬を過ごせば、軽やかな春を迎えることができるでしょう。・・・・か?

永遠と時、という深遠なテーマをオシャレに物語るファンタジー

ケンブリッジの哲学する猫

「ケンブリッジの哲学する猫」 Thomas Gray-Philosopher Cat はファンタジーで、いっとき大学の猫となったトーマス・グレイ(男性名ですが雌猫)とルーカス・ファイストというペンブルック・カレッジの教員の物語です。象徴的に取り上げられる「謎・数17の素数」をめぐって展開されています。数学的には無限、哲学的には永遠というテーマです。ユーモアがちりばめられた、でも、人生について考えさせられる作品です。「アンネの日記」の深町眞理子さんという方が翻訳されています。

猫好きな人は必読、研究者・大学関係者も笑える、競争社会に疲れている人には潤い、キャッシュ・カードのセキュリティー問題に奔走しておられる方には暇つぶし、英国好きの人には旅への夢想、牧師には脳のやわらか体操、そんな書物です。と、思います。

31歳で逝った神学徒が残した書物

福島春太郎

この小書は明治39年生まれで、31歳で召された日本基督教会の牧師・福島春太郞「贖罪論」です。父の書斎から失敬して手元においた一冊ですが、当時、関心をもたれていた英米の神学者たちの贖罪論を批判的に整理してご自分のお考えを記しています。20歳代ですよ、お書きになったのは。すごい。

贖罪論で取り上げられている英米の神学者は James Denney, J.K.Mozley, P.T.Forsyth, W.R.Dale, J.Mc.Leod Campbell, R.C.Moberlyです。著者の立っている基盤はカルヴァンです。しかし、和解論の中では聖潔(聖化)の問題に関して、英米の神学者に感化を受けておられるからでしょうか、深い敬虔に根ざした漸進的聖化論を展開しておられます。

16世紀に印刷されたドイツ語聖書

15年前にドイツのアイゼナハ郊外のヴァルトブルク城を見物に行ったおりに、土産物店で売っていた16世紀に印刷された聖書の1頁です。

そのころは、東西ドイツが統一しまだ数年、アイゼナハの町も閑散としており、お金がなかったのでしょう、もったいないことですが古い聖書を解体して一枚いくら、で売っていました。

16世紀ドイツ語聖書断片昨年、訪れたときにはもう売っていませんでした。これは教会の私の執務スペースに飾ろうかなと思っています。