涵養

哲学者の國分功一郎さんの朝日新聞への寄稿の中に「人物の涵養」という表現を見出しました。以下、引用です。

民主主義における平等にはもう一つ別の側面がある。平等に与えられた権利にふさわしくあるよう、自らの言葉や考えを鍛え上げることが期待されるという側面である。アレント(注:ハンナ・アレント、現代ドイツの哲学者)は古代ギリシアの民主政を参照しながら平等と同等を区別し、後者の重要性を強調した(『活動的生』)。民主主義は民衆に、政治参加の権利を行使するにふさわしい水準の者どもと同等の存在になろうとすることを求める。だから民主主義社会では、教育による人物の涵養(かんよう)や報道による情報提供の必要性を誰も否定しない。

民主主義が成り立つためには、教育によってそれに参与するに相応しい人物を育むことと、良質な情報の提供が不可欠であると述べておられるわけです。

私は、「人物の涵養」という言い回しにここで初めて出会いました。もちろん、「霊性の涵養」という言い回しには馴染みがありました。それはキリスト教的背景のもとで語られていることです。「霊性」とは私の理解では、絶対他者である神による義と愛と平和によるご支配(すなわち神の国)を待望しつつ、それに向かって身を向け、かつ持続的にそこに向かい、牽引することができる気質のことです。

いずれにしても、それが培われるには雨が土の中に染み込んで、長い年月を経て帯水層を成すように(それが涵養という意味ですね)、長い年月を要する育みによるということです。その育みは良き伝統を継承し、さらに伝統を形成し続けようとする社会があってのことでありましょう。現代社会のように、経済中心で、移り変わりの激しい消費社会においては不可能なことなのかも知れません。民主主義の危機ということが言われているとすれば、そのあたりのことに深層があるのかも知れません。

浜松ギョウザとスフレパンケーキ

昨日(9月24日)、餃子の石松本店に行ってきました。二人の牧師が誘ってくれて、病後はじめての餃子屋さんでした。上品なお店で、味の分からない私にも食べやすい餃子でした。

浜松餃子というのはいつ頃から有名になったのでしょうか。20数年間、三方原に住んでいましたが印象に残っていません。5年前に浜松に戻ってきて浜松餃子が浜松の名物になっていることを知り驚きました。

石松さんは浜松餃子発祥の店と聞きましたが、真偽は分かりません。ある人が石松さんの餃子が浜松餃子のスタンダードと思って味わい、それを基準にして他店の餃子を味わってみたらいいんじゃないかと言われたので、なるほど、それもいいなと思っています。

昨日は餃子20個の単品と水餃子2種類をいただきました。だいぶ胃が小さくなったので、食べすぎ感があります。そのあと星乃珈琲店で星乃ブレンドとスフレパンケーキで楽しい時間を過ごしました。

ご老人にタブレットやスマホを

昨年、5ヶ月以上入院し、退院後、自由に外に出て歩き回ることができない身です。どうしても、情報を得、あるいは他の人と交流するのはインターネットを通してということになります。

そこで、最近はまっているのがSNSです。FacebookやTwitterですね。Facebookは親しい人たちとの交流のために有用ですがTwitterでは、使い方つぶやき方を身につけると見知らぬ人との思いがけない出会いや、有用な種々な情報を得ることができます。

私はおもにiPadを使っています。自分の好きな時間にできるので都合が良いです。きっと歳をとっても、いつまでも、SNSを続けると思います。もし、再び入院することになった時には、できたらwifi環境が整っている病院にお世話になりたいです。

もちろん、今の時代ですから無線通信が手軽に利用できるので、どこにいても大丈夫ですが。

で、私はお年寄りに、また、お年寄り候補の方々に、タブレットでインターネットに親しむようにお勧めします。スマホでも良いですが、液晶画面が小さいでしょ。

 

嫌な知らせ

友達から聖路加国際病院で起きた事件について知らせがありました。嫌な出来事です。

一部報道によると病院職員で牧師が引き起こしたとのこと。そして、その牧師は私と同じ日本キリスト教団に所属と言われている。

調べてみたら、正確には無任所教師という身分で、現在は教会での務めにはあたっていない、無所属の教師ということです。牧師という呼称は日本キリスト教団では教会に仕えている担任教師を指していますので、この人は牧師ではありません。世間一般には牧師ということになるのでしょう。

肩書きということでいうと、この方はカタカナ表記の派手で意味不明の肩書きを自称しておられます。スピリチュアルケア・スーパーヴァイザーというのがその一つです。ベッドサイド・カウンセリング(これは内容が良く分かります)というのは聞いたことがありますが、スピリチュアルケアは新しい言葉のように思われます。いっときスピリチュアリティーという語がもてはやされたので、それに関連して生まれたものでしょう。しかし、スピリチュアリティーという語は明確な定義がなされていないのが現状です。スピリチュアルというとなんとなく通じるように思われるかもしれませんが、曖昧な言葉です。しかも、大きな大げさな表現ですがスーパーヴァイザーという身分が何を指すのか分かりません。

わたしには詐欺的と感じられます。誇大広告です。

嫌な事件です。事実関係が明確になって、私たちの教団は自浄作用を高めねばならないと思います。

思いのほかの疲労感

療法士さの説明によると、何かをすると疲労感が大きいのは(思いのほか疲労するのは)麻痺した左半身を動かしていることと、バランスをとったり足下など周囲に注意をはらったりして緊張するからだそうです。その通りだなと思います。
歩き慣れたところを歩くよりも慣れないところを歩くほうがずっと疲れます。歩く時にも頭を使って、神経をとがらせています。頭を使う?日々です。
最近は疲労感が少なくなってきました。そう感じるこの頃です。有り難いです。

リハビリ雑感

脳出血により病院に運んでいただいて一年3ヶ月が過ぎました。

出血が一応治り、安定するまでの期間を除いて、本格的にリハビリを受けるようになって1年2ヶ月、リハビリテーション病院を退院して10ヶ月がたちました。

入院時には左半身が見事に麻痺して左は感覚もなく、もちろん脚も腕も自ら動かすことができませんでした。リハビリの先生に身を委ねて、そんな状態からリハビリを受け始め、そのうちに、体を支えていただいてベットから車椅子への移乗ができるようになり、そして、左脚に装具をつけて平行棒を頼りに立ち、右足が丈夫だったのでそれを支えとして、見守りのもとベッドから車椅子に(自分でというのは大げさですが)まあ自分で移乗することができるようになりました。また、平行棒の間を数歩脚を前に進めることもできるようになりました。こんな感じです。

平行棒の右側のバーを右手でガッチリと 掴み、それが安全棒となって、右脚を半歩前に出します。そしてその右脚に体重を乗せると、左脚が振り子の原理で前に出ます。その左脚と平行棒ほんの少し体重を移動して、右手で平行棒を掴んでそれを頼りに右脚を浮かせて平行棒を

つづく

 

ニュースをみての雑感

  • 生産性云々のこと。出産が生産にいとも簡単に言い換えられる時代になってしまっているのかなあと思わされました。経済、すなわち生産と消費が社会の仕組みの根幹となり、人間の営みがそれに追従する時代になって久しい。けれども、「人はパンだけで生きるのではない。」という言葉を心に刻むようにしたいものです。
  • 某医大入試のこと。女性差別、男女不平等として問題視される傾きを感じますが。医療体制を整える苦労・苦心が背景にあるのだと思います。医療機関において女性の働きやすい環境を整えることは大切な課題だと思いますが、病者にとって充分助けとなる医療体制が整うことはもっとも重要な課題だと思います。難しい課題です。それを誰が考え整えるというのでしょうか。考えてみなければなりません。少なくとも、某医大の入試試験を涼しい顔をして論外と言い放つ政治家は信頼できません。
  • アマチュア・ボクシング連盟に関すること。競技には勝敗が伴いますが、勝敗だけが競技者にとっての意義や価値ではないでしょう。競技そのものの楽しみを普及して欲しいと思います。そのためには、競技のルールや判定が適切であることが重要になりましょう。たわいもないゲームであってもルールを守ることでその楽しみを共有できるのですから。「公平・公正にジャッジするように」と指導するのが指導者なのではないでしょうか。
  • 死刑執行のこと。死刑廃止論があります。そうあれば良いと思いますが、死刑制度の存在が非現実的であるとは必ずしも思いません。昔の「目には目を、歯には歯を」という法には意味がありましょう。それ以上の報復を欲するのが人間ですから。今日も残念ながら変わることはありません。

忍耐とはギ語で大きな心と綴ります

PCやタブレットで文字を打ち込むことに随分慣れてきました。打ち間違いも少なくなってきました。(打ち間違いが多かったのは明らかに病気のせいです。病気をする前も誤字脱字が多かったかな??)ですが急いで作業をしたいと思うと、両手ブラインドタッチで打っていた時代を思い出して、ストレスを感じ、イライラすることがあります。しかし、焦ってはいけません。全てのことでそうなのですが、少しづつ少しづつと言い聞かせて前に進むようにしています。たぶん、病気をする前に比べて忍耐力が養われていると思います。そして、じわじわっと希望というか、さらに忍耐して大切なことを積み重ねていこうという思いがふくらんできます。ちょっと嬉しい経験です。・・・・・お腹は膨らみませんよ。

iPadで音声入力

音声入力のテスト中です。なかなか調子がいいです。これは楽ですね。こんなにスムーズに文章を音声で綴ることができるとは思いませんでした。大いに使っていきたいと思います。それにしてもiPadの進化には驚きます。

久しぶり

何年ぶりでしょうか、久しぶりにwordpressでwebサイトの立ち上げ作業をしました。病気をしたせいもあるかと思いますが、忘れていることがあったり、wordpressに新しい機能が加わっていたり、デザインの流行りに変化があったりと、戸惑うことが多々ありました。

苦労するというほどのことではありませんが、やっとこさ、最低レベルのものではありますが、サイトと表示枠を構築(大げさですね)することができました。

そうしたら、ある人が私の教会のホームページも作ってくださいと言ってきました。どうなることか。

私の病

身体的なことではありません。新しい物好き、それが私の病です。ことに、カメラとPCに関してはそうだと言わざるを得ません。幸い、脳出血後は左半身麻痺のせいで写真を撮ることがままならなくなり、カメラを新しく購入することはなくなりました。しかし、PCはそうはいきません。身体が不自由になったので、より自分に適した物はないか、見つけては手に入れるようになりました。

ある人が、病気をする前のことですが、君は買っては捨て買っては捨てだなあ、と私に言うので、なるほどと思い、自分を「買っては捨て爺」と命名しました。この名をどこかで見つけたら私のことです。

わたしのこの病は、現在、タブレットとスマホで進行中です。スマホはiPhoneで一応おさまっていますが、タブレットはそうはいきません。主に今はiPadを使っていますが、新製品に関心が向きます。今月、新しいiPad proが発売されると言う噂が流れ、期待して待ったのですが、噂は噂に終わりました。残念でした。

iPadで何をするかと言うと、簡単な文章を作成してブログにアップすること(今、それをしてるところです)やネットサーフィン、メモ(情報収集と保存と整理)や動画作成編集、プレゼンテーションの作成です。分かってきたことですが、iPadとiPad proそれぞれの新旧機種は、同じように見えても使ってみると微妙な違いがありますね。ほんの少しの違いです。身体に不自由がなければ気にならないようなことですが、その違いが今は大きく感じます。少しでも、使い勝手が良い物をという思いになるのです。病は続きます。

iPad用ブラウザsmooz

使い始めてみました。なかなか良いですね。なによりも動きがスムーズです。便利な機能が色々と織り込まれており、使い勝手が良いです。

また、種々の設定や機能選択へのアプローチが簡潔です。

今後smoozがiPadでは主プラウザになるでしょう。

3時間かかる

昨日車椅子を押してもらって、家内のスマホを機種変するために近くのドコモショップへ。

親切に対応してもらったが、3時間かかった。ちょっと長すぎた。正直疲れてしまった。今日は午前中に昨年入院したリハビリテーション病院で定期の受診。午後訪問リハビリを受けたが疲れが残っていて、辛かった。直後に爆睡。

こうやって少しずつ体力がついていくのだと思う。

毛づくろい

Twitterでフォローしている勝間さんのブログを書く理由です。「サル山のサルの毛づくろいのようなもの」は面白い。人間社会では「毛づくろい」が失われてしまって挨拶もしない社会になって、閉塞していないか、と考えさせられました。個人情報が知られないようと神経を使い、そうすることで個人を守らないといけないと思い込んでいる。殺伐とした社会に生きているのだから、と。「毛づくろい」などあり得ない。しかし、本当のところはそれを必要としているのではないだろうか。殺伐とした社会を助長していないか、少し考えて見なければならないと思う。

センチメンタル?サクラメンタル?

29日は「サクラメンタル・ジャーニー」という説教題にしました。

「センチメンタル・ジャーニー」を捩りました。同名の歌を松本伊代さんが歌ったり、同じくリンゴ・スターの曲名にも採用されて親しまれています。おおよそ旅は感傷的なものですが、元々は英国の作家

ローレンス・スターンという英国国教会の牧師が綴って、1768年に出版された紀行文の書名『センチメンタル・ジャーニー』(A Sentimental Journey)によって広く親しまれるようになりました。このローレンス・スターンを彼の代表作から影響を受けた夏目漱石が日本に最初に紹介しています。紀行文センチメンタル・ジャーニーは静養を兼ねた大陸旅行の体験から生まれた作品です。著者は結核を患っていたのです。そして、大陸旅行は人生の最後の旅となりました。その後、病状が悪化、同年3月ロンドンで没したと言われています。牧師の綴った人生最期の紀行文なので読んで見たいと思うのですが、日本語で読めるのかどうかわかりません。

さて、わたくし達には一つの旅路が始まっています。サクラメンタル・ジャーニーです。それは、神の不思議な御手に導かれる御国への旅路で、私たちの人生の導きとなっており、救いを辿って行く旅です。

 

二枚舌?

このところ歯の治療をしています。

先日、大きく口を開けて奥歯の治療を受けていたのですが、歯科医の先生が

「張田さんは舌が大きいから治療しにくいわ」と言われるので、

「私の舌は二枚あるでしょうか。」と訊ねると、

「そうね、うーん、三枚かしら」とのお返事をいただきました。

 

 

信仰者の葛藤とその目覚め

15) ὁ γὰρ κατεργάζομαι οὐ γινώσκω· οὐ γὰρ ὃ θέλω τοῦτο πράσσω, ἀλλ’ ὃ μισῶ τοῦτο ποιῶ.

ローマの信徒への手紙7章を読み直す

7章にはある「葛藤」が描かれています。たとえばこうです。15節です。「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」神の良き律法を行うことができないで葛藤している様子が語られています。

印象深い言葉ですが、この言葉を含む7章の解釈について、古来、決着していない議論、論争があります。2つあるいは3つのことを焦点として論じられています。一つは、ここに描かれている葛藤は、いったいパウロの個人的な経験なのかそうでないのかです。その場合、2つ目のことになりますが、この葛藤は回心以前の人間のことなのか回心後のことなのかです。そしてもう一つは、そもそもこの葛藤とはいかなる事態なのかということです。分かりにくいのですが、今は三のことに焦点を当てて読み直してみたいと思います。

読み直すきっかけとなったのはある書物を通して動詞の態の一つである中動態についての関心を喚起されたからでした。中動態と言うのは今は失われていますが古典ギリシャ語や聖書のギリシャ語に存在していた動詞の性質に関する文法上の説明の仕方の一つです。よく知られているものに能動activeと受動passiveとがあります。説明は不必要でしょう。ところがそのいずれでもない中動middleという性質を持った動詞の形態があったのでした。文法という文章の仕分けの仕方が編み出された時、そう呼ばれるようになりました。近代人には捉えがたいのですが、能動でも受動でもない別のもう一つの動詞の形態です。
私たちは能動ー受動という対立(対称)の図式で物事を考えることにすっかいなれ親しみ、意志や主体性、そして責任という観点から自分も含めて人間の行為をとらえようとしていますが、それとは別の言語の世界、捉え方がその昔にはあったのでした。それが中動と呼ばれる世界です。
ところで、ギリシャ語は語の語尾の変化によって能動であるか受動であるか中動であるかが示されます。そして中動の語尾変化は受動態に似ています。能動とははっきりと異なっています。ところがその意味は能動である、と一般に説明されます。分かって分からない説明ですが、それを真に受けて普通は能動の動作として翻訳されるのです。
ところが、この中動態と格闘し、それが何かを探求し、中動態の世界に案内しようとしてくれている哲学者が現れました。國分功一郎という人です。著作は「中動態の世界ー意志と責任の考古学ー」です。『医学書院』と言うところから発行されています。それは、依存症からの回復と取り組んでいる人たちとの関わりから生まれた著作であることを物語っています。後書きでこう記しておられます。「私はそこで依存症の話を詳しくうかがいながら、抽象的な言葉では知っていた『近代的主体』の諸問題がまさしく生きられている様を目撃したような気がしたのだと思う。『責任』や『意志』を持ち出しても、いや、それらを持ち出すからこそどうにもなくなっている悩みや苦しみがそこにあった。」

私の読解力の乏しさがおもな理由であるが、まだ腑に落ちないところもある。けれども、興味深く読ませていただいた。
思い出してローマの信徒への手紙7章15節をひらいてみると、やはり「私がしていること」と訳されている語は中動態であった。中動態で言い表される他に言いようがない事態がここに表現されているように思われます。

今日はここまでです。続きは後の日に。

15) ὁ γὰρ κατεργάζομαι οὐ γινώσκω· οὐ γὰρ ὃ θέλω τοῦτο πράσσω, ἀλλ’ ὃ μισῶ τοῦτο ποιῶ.

もがいていた貴重な時代4その2

もがいていた時代に何をしたか。説教のための学びと共同の研鑽をしました。今回は、その話の2です。
2、同僚の牧師たちと毎週同じテキストで説教をするようにして、一緒に説教準備のための黙想をするようにしました。これが今回のお話です。

当時、大阪の豊中にいました。近くの箕面というところに同年輩のS牧師が、少し離れていますが茨木で担任教師をしていたN伝道師がいました。発端を忘れてしまいましたが、3人で毎週木曜日の夜に集まって説教の準備として黙想をするようになりました。時間は早くて午後8時くらいから遅くなると午前2時くらいまででした。会場は茨木教会の伝道師館です。建て直した直後で、立派な住宅、快適に黙想会をすることができました。
大阪というところは面積が狭いので、交通量の少なくなる夜は、短い時間で行き来できます。私が箕面のS牧師を迎えに行き、茨木まで出向いたのでした。その車の中での会話について思い出があるのですが、後日にということにします。
黙想会で、何をしたかというと、まずギリシャ語テキストを開いてしばらく黙読をします。次に、テキストを巡って自由に話し合います。基本的にはそれで終了です。テキスト黙読が30分くらいだったでしょうか。黙読といってもテキストを眺めるということです。その後の話し合いは、たいがいS牧師が口火を切りますが、3人で一緒に一つのテキストを覗き込む、ことになります。テキストの個性に気づき、共通の認識を持つようになります。解釈が困難なことにぶつかると、N伝道師がおもむろに厚いドイツ語注解書を開きここにはこう書いてあると紹介してくれます。ピンとこないこともありましたが(簡便に利用できるような注解書はありませんよね。)そそれなりに参考になりました(窓を開けて外の空気に触れるというような感じですね。)。そうしているうちに自然に黙想が深まって(広がって)いきます。テキストをめぐって、さらに、それに触発されて教会のこと、人間や社会のことなどが話題に上がります。そしてテキストに戻ってきて、神学的霊的(当時は霊的という自覚はありませんでしたが)な事柄へと移り、書物を通して知ることのできていた説教者や神学者や文学者、哲学者の言葉(表現)などが思い出されては披瀝されます。この一連の黙想ではS牧師が大いに賜物を発揮してくれました。そして、N伝道師の聖書学の関心からの発言などが加わり、やりとりが続いていきました。私はというと二人の話をじっと聞くという役割り?でした。
ここで開いて黙想をしたテキストで、三人はそれぞれの教会で説教したのです。ですから、時にはその録音を持ち寄り、説教批評会をすることもありました。
4年間続いたでしょうか。この黙想会を通して教えられたことは多々ありました。貴重な経験でした。それらのことについては後日、少しづつご紹介したいと思います。
続く

ハイム・ラビン著「ヘブライ語小史」紹介の続き 4章の3

第4章その3

ここでは、バビロン捕囚と捕囚民のユダヤへの帰還、エルサレム再建の時代に至る推移が論じられています。

古典ヘブライ語は前586年にエルサレムが滅亡するまでの400年間用いられました。この間、都エルサレムにおいてさえ話し言葉には変化が見られたであろう。しかし、書き言葉は、文法と語彙の重要なものはほとんどそのままで、文体だけが変化した。これは古典ヘブライ語が教育によって習得された文章語であり、主に社会的エリートが有用に用いたということを意味しています。当時は、書簡や書物は実際にはその著者によって書かれたのではなく、文字と共に書き言葉を習得していた専門の書記生によって書かれたのであった。これら書記生は、できうる限り厳格に言葉の基準を維持することに意を尽くした。なぜならば、話し言葉と書き言葉の距離が大きくなればなるほど、かれらの立場がより有利になるからである。つまり話し言葉と書き言葉に乖離が生じていったと、ラビンは考えています。
そして、ネブカドネツァルによるエルサレム破壊とバビロン捕囚によって大きな変化がもたらされました。ネブカドネツァルは祭司、書記官、職人たちを、すなわち書き言葉の担い手たちをバビロニアに移送させ、ユダヤに残ったのは「ぶどう酒を育てる者と農夫」(列王記下25:12)、すなわち村民だけであった。そのため、ユダヤでは、ヘブライ語が話されてはいたが、古典の文章語を引き続き育成する者が一人もいなくなった。
捕囚は70年続いた。この期間に捕囚の民は彼らのまわりの言語を話すことをまなんだ。当時のバビロニアの話し言葉はアラム語であった。他方書き言葉は古代のバビロニア語(アッカド語)で書かれて伝達されるものもの(公文書のようなもの)だけが用いられていた。
前539年ペルシャの王キュロスがバビロニア帝国を征服した。彼はすぐに公式な記録にバビロニア語の使用を禁じ、その代わりにもっとやさしいアラム語を代用させた。またペルシャの王たちはバビロニアの支配を受けずにペルシャ帝国の支配に置かれた地域にもアラム語を広めた。このようにして、アラム語はインドからヌピア(現北部スーダン、エステル1:1)にいたる広大な地域における伝達文書の言語にもなった。アラム語による碑文がインドでものこされている。前272年に全インドの支配者となったアショカ王が北西インドに建てた碑文である。その他に、アスワン近隣のイェブ(エレファンティネ)からアラム語で書かれた膨大な数の書簡や契約書が出土している。これらは、ヌピアの国境の近くに、ペルシャ人によって配置されていたユダヤ人駐屯軍からはっせられていたものである。それらはヘブライ語語法の影響がみられるが、すべてアラム語で書かれている。
これらのことから、キュロス王の勧めで帰還した捕囚民が、私的にも公的にもアラム語を使用する習慣を持ち帰ったと考えられる。彼らを見張るために、公務でのアラム語使用をペルシャ当局が要求したであろう。それ故、ネヘミヤ記8章8節には、書記官エズラが水門の傍にある広場で律法の書を民の前で読んだ時、「彼らは神の律法の書を翻訳して(メフォラシュmephorash)解説を加え、朗読箇所の[意味を]理解させた」と記されている。「理解させた」とはレビ人たちが人々に与えた説明のことであり、「翻訳して」とは聖書がアラム語に訳されたことを意味している。ちなみに聖書のアラム語訳は「タルグム」と表されている。この翻訳は聖書のヘブライ語を理解することのできなかった帰還したばかりの捕囚民にとって必要なことであった。同時にペルシャ当局への公式声明という目的もあったと思われる。

もがいていた貴重な時代4その1

もがいていた時代に何をしたか。説教のための学びと共同の研鑽をしました。今回は、その話です。説教における私の非力ゆえに、学びと研鑽を必要としていたのでした。
説教は牧師の務めの中で最も重要な事柄のひとつです。また、教会に対して、教会員に対して大きな影響力を持つものです。説教者の責任は重大です。その重大さを十分には理解してはいなかったし(今は、少しは理解が深められたとはいえ、十分には理解したとは決していえません)、説教の非力によって引き起こされるさまざまな困窮については苦い経験として感じ取らされてもいました。そして、平たい言い方ですが、良い説教をしなければならない、という思いに強いプレッシャーを感じました。
どのような学びと共同の研鑽をしたかというと、
1、自分の説教を評価、批評してもらうようにしました。
2、同僚の牧師たちと毎週同じテキストで説教をするようにして、一緒に説教準備のための黙想をするようにしました。
3、当時活動が始まった説教塾に加わりました。
4、もちろん、自分なりの取り組みもしました。
以下、一つ一つ簡潔にご紹介します。

説教のために、なしたこと。
1、評価と批評をしてもらうようにしました。
家内に頼みました。評価と批評の手段は◯、✖️、△です。
◯の意味するところは、説教を聞いて礼拝が終わり、胸を打ちながら、しかし、密かな歓びを抱いて礼拝堂を後にした、です。
✖️は説教中にいたたまれず、その場を離れたいと思った、です。
△は、今日は説教を説教としてまあまあ落ち着いて聞けた、です。
日曜日の夕方、この評価と、その理由を聞くのが、時には喧嘩にもなりましたが、習慣となりました。
何年続いたでしょうか。これの良し悪しについては別の機会にお話しますが、説教を評価してもらうことは有益なことだと思いました
続く

FaceBookに投稿したこと『暇と退屈」

暇を持て余しているというわけではありませんが、なすべきことが多々あるにもかかわらず、身体的に対応できることが少なく、結果として暇をもてあます状態にあります。そのぶん、頭を使うこと(頭の中だけでの動き)が多くなってきました。もちろん、快適に動くわけではありませんが。
退それで、退屈の感じ方が変わってきました。身体を動かしてなすべき作業をこなすことが次々と求められると、動きの鈍い頭ですから働かせることがままならず、退屈に思えてくるようです。
普通、退屈と思われるような状態が、わたしには退屈ではない状態となっているようです。もしかしたら、哲学者や詩人になるかもしれません?

 

もがいていた貴重な時代 その3

もがく時代に、何をしたか。聖書と神学の勉強をしました。本を読みました。一人で、そして友と一緒にです。
勉強が好きだったからではありません。勉強しなければならない、と強く思わされるようになったからでした。牧師は聖書を教えたり、信仰のこと、教会の教えについて、教えなければなりません。どれ一つとして簡単なことではありません。難しいことだと気づいたのでした。
神学校で一通りのことを学んだのですが、それは概論。緒論に過ぎなかったのだと思います。それ以上のことを咀嚼する力量が私になかったとも言えます。人はいろいろな背景を持っており、様々な言葉や思想に触れていますが、その生身の人に向かって理解してもらうようにと教えたり話したりすることの難しさに直面したとも言えましょう。より深く、より正確に、より広く理解していなければなりません。
非力を感じていたのは私だけではありませんでした。非力のレベルは人それぞれで、違いはありましたが、非力だと感じている同じ世代の同僚を見出し、一緒に勉強する交わりができました。有意義な学ができた、と思っています。一人で読んだ書物で印象深かったのはP.ティリッヒの「キリスト教思想史」や熊野義孝の「キリスト教概論」エミール・ブルンナーの「聖書の真理の性格」などがあります。もちろん、ルターやカルヴァンも読みました。バルト研究会では「和解論」を丁寧に読みました。同年輩の親しい牧師達とは「古典を読む会」と銘打って神学各分野で必須と思われるもののうち、一人では読むのが難しいし、一緒に読むと有益だと思われる書物を取り上げて読みました。例えば、ラートの「旧約聖書神学Ⅰ、Ⅱ」トゥルンナイゼン「牧会学Ⅰ、Ⅱ」ボーレン「説教学Ⅰ、Ⅱ」などです。ユンゲルの「神の存在」も。これは難解で、一通り読み終わったところで翻訳者のところへ車で押しかけて行き教えを請いました。大阪から愛媛県までのドライブを忘れられません。
この「古典を読む会」は「関西説教塾」へと発展的解消しました。説教に関することは次回にお話しいたします。読んだ書物を隅々まで覚えてはいませんが、読むことが一つの経験となって、それが肥しになっています。こうしているうちに、なお非力ではありますが徐々に向上して行ったと思います。

もがいていた貴重な時代、 その2

もがく時代に、何をしたか。同じようにもがいている友を得ました。その話をします。
あるとき、伝道所で会計をしてくださっていた70代の役員がご夫妻で礼拝に来られなくなりました。それまでは日曜日には朝7時には来られて、庭の花壇の手入れをしてくださっていました。きちっと会計の務めをなさり、きっちりした方でした。それだけに、少し人に厳しいところもおありでした。
牧師に対しても同様、いや牧師だからこそ、厳しさを求めておられたと思います。朝早く伝道所に来られて花壇の世話をなさる、そのおりおりにその厳しさが感じとられるのでした。
何か仰りたいことがあったのでしょう。その頃、二階の一部増設の話が出ていました。伝道所の会員にとっては、少人数で伝道所の財政を支えるのは、大きな教会(親教会)の会員には分からない苦労が伴いました。ことに会計には重圧がかかっていたことでしょう。その上に増築の話ですから、重圧はさらに大きくなりましょう。私と言えば、次回にお話ししますが、牧師として、説教者として非力でしたし、ご存知のように、よく言えば温厚、悪く言うといい加減ですから、伝道所の皆さんには苦労をかけていたのでした。
そのような状況のもとで、この会計役員は心が折れてしまったのです。牧師に躓いたということもおっしゃっておられました。
小さな伝道所です。奥様と二人が礼拝に来られなくなるのは大きな痛手でした。さすがの私も悩みました。どうしたら良いだろうかと、落ち込んでいた時、近くで伝道・牧会している関西学院出身のI牧師(私よりも3、4歳上の方ですが、訪ねて来られたのでした。この先生とは当時、大阪教会を会場に毎月行われていた牧会研究会や会場持ち回りのバルト研究会で一緒でしたので親しくしてもらっていました。その時、思い切って正直に実情を話して、どうしたら良いだろうかと相談しました。すると、すぐに返ってきた言葉が「僕にも同じような経験があるよ」でした。何か同志を得たという思いになりました。そして、アドバイスを二つくれました。
一つは、この問題の処置を役員会に委ねてみたらどうかということでした。役員全員が一人ずつ会計役員から話を聞いてきてもらい、どうしたら良いかを話し合ってもらう、というのが具体的なサジェスチョンでした。二つは、その時に、牧師はぜったい嘘を言ってはだめだよ、でした。自分を擁護しようとしてはならない、まな板の鯉になるようにということだと理解しました。
そのようにしました。1ヶ月かけて役員が会計役員夫妻を訪ねて、話を聞いてきてくださいました。何をお聞きになったかは、詳しくは承知しておりません。そして役員会が開かれました。静かな役員会でした。役員それぞれの感想をお持ちで、短い言葉でそれを披瀝しあって、今後、伝道所の歩みをどうしていけば良いかを話しあってくださったのでした。結論は、非力で頼りない牧師ではあるが(そうは仰らなかったですが、共通認識であったと思います)、牧師を支えつつ伝道所の形成、伝道に力を尽くして行こうということでありました。
思いがけないことでしたが、この事を通していっそう役員会形成がなされて、伝道所の歩みが強められたのでした。
役員会に委ねるということは牧師にとっては容易なことではありませんが、それは必要なことだったのです。牧師は嘘を言ってはならない、は今も肝に命じている言葉となっています。相変わらず非力で不十分な牧師であることにかわりはありませんが。
そして、I牧師は同じようにもがいている友となりました。
もがき、強がることもできない時に、友を見出したのでした。
I牧師の他、何人もの友を与えられた時代でした。

続く

もがいていた貴重な時代(連載)

牧師は若い頃、20代、30代の頃には苦労するようです。いや苦労するものです。
もがく時代と言えましょう。40を過ぎれば苦労はないと言うことではありません。
苦労はありますが、若い時の苦労が肥やしになって、落ち着いて取り組み、克服していく知恵と力が備えられてきているのだと思います。
その意味では、若い時に苦労しない人は不幸だと思いますし、苦労しても、良い経験を重ねることができなければ、意味がないと思います。

さて、もがく時代に、何をしたか。
1、同じようにもがいている友を得ました。
2、聖書と神学の勉強をしました。本を読んだということです。一人で、そして友と一緒にです。
3、説教のための学びと共同の研鑽をしました。
4、教会学校教案誌の毎週のテキスト研究を4年にわたって執筆しました。これは自主的にしたのではなく、負わされたのでした。しかし良い経験になりました。
5、教会の青年たちと山登りに行ったり、キャンプをしたりして遊びました。

続く

ハイム・ラビン「ヘブライ語小史」4章の紹介つづき

ラビンは古典ヘブライ語の成立とその後の推移を4章と続く5章で論じています。今回は成立後の推移について論じている部分を4章その2、また、その3として紹介します。

4章その2の2

王国のヘブライ語がどの程度他の言語からの借用に自由であったか、ということは計りにくい課題である。
しかし、以下のことは確認できる。
1、ヘブライ語中のほとんどの外国語の借用語は、ヘブライ人とカナン人の間の接触の頃のものである。それらはダビデの時代の頃には、すでにヘブライ語としてうけいれられていた。
2、預言者たち、特にイザヤは、預言者たちが預言しようとした国の言語に由来する外国語を用いる傾向があった。ただし、それが当時一般の使用に浸透して行ったかどうかは不確かである。
3、捕囚前のヘブライ語にアラム語からの借用語が含まれていたかどうかが、大きな論点となる。

このように語って古典ヘブライ語が持つ個性と特徴はのちの時代にも引き継がれたとみています。そしてさらに続きます。

前記最後の点、つまり3については今日の学問は、王国時代に由来するテキストに現れる単語について、アラム語の起源を仮定することにはおおむね否定的である。
しかし、外国との交易 によってもたらされた術語は自由にもちいられたであろう。ここでラビンは具体的にいくつかの語を拾い上げている。またギリシャ語からの借用語とおもわれるものもある。ギリシャの船員たち往来によるのであろう。

さて、統一王国分裂(前926年)によって再び部族間に政治的境界ができ、南北分裂王国時代をむかえ、宗教、文化、政治的結合などについては別の歩みをすることになったが、言語の点では分裂することはなかった。このことに関連して注目すべきはを預言者アモスとホセアである。
アモスはユダの出身であるが、北王国で預言し、その言葉は北王国の人々にあいつうじたのである。また、ホセアは北王国の出身であ、サマリアで用いられていた俗語を取り入れるほどであったが、接続詞のshe-(sha-)は決して用いず、asherのみである。つまり北王国は少なくとも文学的目的のためには、それがある程度の地方色を帯びていた可能性があったとしても、ダビデーソロモン時代の古典ヘブライ語を続けて使用したということである。

第4章その3

古典ヘブライ語は前586年にエルサレムが滅亡するまでの400年間用いられた。この長いあいだに話し言葉がエルサレムの都においてさえ全く変化しなかった、ということはあり得ないことである。しかし、書き言葉は、文法と語彙の重要なものはほとんどそのままで、文体だけが変化した。これは古典ヘブライ語が教育によって習得された文章語であり、主に社会的エリートが有用に用いたということを意味している。当時は、書簡や書物は実際にはその著者によって書かれたのではなく、文字と共に書き言葉を習得していた専門の書記生によって書かれたのである。これら書記生は、できうる限り厳格に言葉の基準を維持することに意を尽くした。なぜならば、話し言葉と書き言葉の距離が大きくなればなるほど、かれらの立場がより有利になるからである。

 

老健施設でショートステイ

1月16−18日、聖隷福祉事業団のベテルホームで2泊3日のホームステイをさせていただいた。家内の休暇のためである。

なぜベテルホームでかと言うとケアマネージャーがそこではリハビリをしてくれますよと言って勧めてくれたからである。

所長先生のあたたかい配慮により、熱心なリハビリを受けることができた。お陰で、右足が筋肉痛になり、久し振りの大いなる疲労感を味わっている。夜は死んだように眠った。

ただし、イビキは生きていたが。