アメリカの話ではなかった。つくば市で大きな被害が。
作成者別アーカイブ: Makoto Harita
静かな東京も明日で終わり
GWはどこにも出かけない。東京が静かになるからだ。とくに六本木は閑散とする。
都内、ことに山手線内は交通量も少なくなり、自動車での移動がきもちがよい。渋滞がなくて、快適に運転すると、都区内ってこんなに狭かったのかと知らされる。
この静けさも明日で終わりなので、夕方から少しだけドライブでもしよう。
ArrowsTabでATOK
ATOKが使えるようになった。文字変換も、入力も、格段良くなった。これは使える。
今までは、圧倒的にiPadが優位だったが、ATOKが使えるArrowsTabが自分の中では逆転した。
ATOKは30年前にNECの9801mというPCにワープロソフト太郎を走らせて使うようになって以来のお付き合いなので、ホッとする。ArrowsTabの使用頻度が上がりそうだ。
雨で実行できず
スイスを思い出す
昨夜、渋谷ののんべい横丁で同席した外国人はスイスの人たちだった。ベルンから来たようで、スイス訛りのドイツ語で話していた。
いつの間にか、私はスイスの思い出にふけったのであった。スイスにまた行きたいなあ。
宣教論に関すこと
1960年代から1980年代にかけて提出された宣教に関する主張と重要な出来事、という題で原稿を書いた。日本基督教団のことである。紙面の都合で5000字にまとめた。
日本基督教団は1941年に日本における福音主義教会が合同して設立された合同教会である。1950年代に信仰告白が制定されて一つの教団として整えられていった。
教会には聖書(正典)と信仰告白と職制とが必要条件とされているが、それぞれ合同した旧教派の伝統に従って各個教会は存立していたが、信仰告白制定 によって日本基督教団として公同の教会の交わりに入ったのであろ。そして、1960年代から礼拝や宣教を整えるべく種々の作業が始まるのであった。
宣教基本方策、宣教基礎理論が1963年までに作られ、社会活動に関する基本方針が1966年に定められた。それらは半世紀を越えた現在において正式な方策、基礎理論、方針として現存している。もちろん、今もそれらが妥当性を有しているということではない。もっとも、社会活動に関する基本方針は現在でも通用するもので、理解を深め、共有することができたら良かったと思う。
それらが、今もそのまま現存している理由は、1969年に始まった教団紛争のためである。ヘルメットとゲバボウによって象徴される、暴力と威嚇によって、会議が崩壊させられ、ラディカルナな新左翼運動に影響された人々とそれに同調する人々によって教団政治が席巻されたのである。彼らはその思想を教団に持ち込み、奇妙な宣教論を蔓延させた。それは、建設的なものでも、歴史形成的なものでもない、一種のユートピアニズムである。そのために教団は混迷し、立ち往生することに。それが理由である。
そのあたりのことを、もう少し詳しく論述したのでありました。
AndroidとiPad
たまたま、iPadとドコモのArrowsTabを所有するようになった。ArrowsはAndroid3.2、アプリも充実してきており、機能も多彩だ。しかし、使い勝手や親しみやすさという点ではIpadが断然よい。
仕事に使えるかと言えば、双方とももう一つだ。ダメだというのではない。もう少し、という意味である。その一つは画面がWindowsのように「s」がないこと。それで、本格的に何かをしようと思うときは、ArrowsTabとiPadを並べて使っている。また、試行錯誤しながら長文を書くというときにはストレスを感じる。
ただ、メールをしたり、ブログの更新などは快適だ。手軽でスピーディー。必須のアイテムとなっている。もちろん、暇つぶしにもおおいに役立つ。
話はもどって、AndroidとiPadとの比較だが、新iPadになってキーボードの反応が早くなったのだろうか、文字を打ちやすい。また文字配列というか仕組みが良い。Androidは、というよりArrowsTabはもう少し工夫してほしい。インターネットプラウザもiPadはPCと変わらないのが良い。画面の美しさも差を感じさせるところだ。
Androidは今夏、4.0になるようだ。秋には仕事にも十分使えそうなタブレットが発売されるという噂がある。ArrowsTabも更新されるようなので期待している。
新ワールド・トレードセンタービル
建設中の新ビルがエンパイヤーを抜いたというニュースが。
9/11のあの夜、Y君から「思い出の場所がなくなったぞ」という電話をもらって、「冗談言うなよ」と言ったのを思い出す。渋谷で飲んでいたので、何が起こったのかわからなかったからだ。
あの日以来、世界が変わった。新ビルはアメリカの自信回復の象徴と言われる。そうなのだろう。完成したらY君と行ってみようと思う。
高画素化
デジタルカメラの進歩は目を見張る。
先月、ニコンから3600万画素のデジタル一眼レフカメラが発売された。ボディーだけなら20万円代で購入できるようだ。わたしが最初の手にしたデジタルカメラ(コンデジ)は120万画素だった。L版でプリントして喜んだ。それはほんの13年、あるいは14年前のことである。3、4年、コンデジの進歩に付き合って、310画素のデジタルカメラを手にしたときには感動したものである。その間、240万画素のコンデジを持ってヨーロッパを旅行したことがあるが、その時、オランダで撮った写真はプリントして何枚か部屋に飾っている。
L版や2L版へのプリントならそれで十分である。デジタル一眼レフカメラも、D40という小型の入門機が600万画素で7.8年前に発売されたが「永遠の名機」と呼ぶ人もいるほど、カメラの基本的な性能は今でも必要十分なものである。
3600万画素、そのような高画素を使いこなすことはないだろうが興味津々である。
倣う
「イエスに倣う」という言葉がある。同名のよく知られた書物がある。敬虔主義の流れにある教派では古典の一つとして今でも読まれているようだ。
最近、この言葉を使って自らの思想を表現している人がいるということを知った。この人は伝統的なキリスト教神学からは離れるという自覚をお持ちのかたである。
さて、倣うとは「手本とする」ということだが、今日のように聖書学の立場から史的イエスを描き出すことが困難な時代に、いったいどのようなイエスを手本とするというのだろうか。
アルバート・シュヴァイツアーが聖書学者でもあったということは牧師の世界ではよく知られていることであるが、彼はかつて「10人の研究者がいれば10人のイエス伝が生まれる」という意味のことを言った。それは、結局は「イエス伝」と言っても研究者の思い描く、その人の思想の反映にすぎないということを述べているのである。
同じように、イエスに倣うといっても、そのイエスは結局は自分の思想の反映であり、手本などと言えるようなものではないのではないか。この方は戒規を受けたのだが、所属する教派に対して、牧師としての身分確認と年金損害賠償を求めて裁判所に民事で訴訟を起こした。自分の身分、自分の年金、その権利を戒規如何にかかわらず主張し、この世の裁判に訴えるというのは、どこにその手本があるのだろうか。
今年も苦労するのか巨人・沢村
昨年は新人にもかかわらずローテションを一年間守って沢村投手、頑張ったけれども思うような勝ち星にはならなかった。それでも10勝以上したのだから立派だった。
今年こそは、勝ち星を重ねるだろうなと思いきや、巨人打線が貧打でまだ1勝。ちょっと可哀想。気負いすぎと感じさせるほどの全力投球、なんとか打線が報いて欲しい。
まだ、東京ドームで沢村の投球を直接観たことはないのだが、一度観たい。それも今年の私の希望。
不安定なタブレット
以前から使っていたドコモタブレットを機種変したのだが、新しいタブレットが安定しない。
バッテリー関連なのだろうか・・・残量40パーセント近くで突然スイッチOFFになってしまうのだ。そして、その後、充電スタンドに立てて電源を入れてスイッチをONにしても、しばらく何の反応もみられないということもしばしばである。
それだけではなく、インターネットに繋いでいるときに突然フリーズしたりもする。ドコモショップに持って行かなければダメかな。
追伸:その後の報告。
ドコモショップに行きました。結論ですが、ソフトウェアの更新で落ち着きました。
ついでに、Atokを入れました。すこしながいぶんしょうをうってみます。良いですね。
またまた、テストです。ちょっと変わりましたね。Atokが働いているようです。
高速バス事故
ゴールデンウィークの悲しい出来事でした。辛い経験をなさったおられる方々に慰めを祈ります。
ところで、「ねむってしまった」というのは他人事ではない。今は、そんなことはないが、10年前まではうとうと運転をよくしていた。自己診断だが、わたしの場合は、無呼吸症気味だったのが原因だと思う。睡眠の仕方を工夫して改善されているのでご安心ください。
今回の事故は運転スケジュールの過酷さが背景にあるのではないかと言われている。バス会社の経営の厳しさ、価格競争の激しさが推測される。無理して働いている運転者さんも多々あることだろう。
これにはグローバル化も関係しているだろう。思い出すのは数年前のハンギリム讃美隊(ソウル・セムナン教会)来日のときのことだ。先方はソウルの観光会社と契約して日本でのバス移動を手配した。費用を聞いてびっくりするほど安かったということを思い出す。
ソウルの観光会社が契約した日本のバス会社(旅行業者ではなく、たぶんバス会社だと思う)だが、スケジュール確認のために連絡を入れても連絡がしにくかった。昼間はほとんどつながらず(電話に出ない)、やっと連絡がとれたのは夜だった。運転手さんたちがバスを動かしながら運営しているのかもしれない、と想像したのを思い出す。
ヘッダーの画像について
2014年の浜松祭りにて。
Hello world!
この投稿はwordpress.comがサイト構築者のためにサンプルとして用意してくれていたもの。下記がその英文。
Welcome to WordPress.com! This is your very first post. Click the Edit link to modify or delete it, or start a new post. If you like, use this post to tell readers why you started this blog and what you plan to do with it.
Happy blogging!
それはさておき、Hello World! はいかにもインターネットに相応しい言葉だと思う。ネットは世界へ情報を発信し、さまざまな繋がりを生み出す。グローバル化の時代のツールである。
ダブルパンチ
年初から腰痛と風邪のダブルパンチを受けました。
腰痛は初めての経験で、痛いものですね。一週間ほど寝込んでしまいましたが、徐々に回復してきています。
風邪も長引きました。咳は腰痛に響きます。ダブルはいけません。
発題準備
クリスマスを祝福のうちにすごすことができたが、
直前の22,23日は20日に召されたF兄の葬儀だった。病床で讃美歌「やすかれ、わが心よ」を聞くのを楽しみとし、平安のうちに召された。羨ましい最後だと思う。
今日は(26日)、明日行われる教会連合常任委員会での発題の準備。「教会連合の課題」。「沈まない、朽ちない、漂わない」を指標として教団改革を展望し、教会連合の進むべき道について発題する。教会のことであれこれ思いを巡らすのは楽しいことだ。
銀座のクリスマス・イルミネーション
この時期、街はクリスマスのデコレーションで飾られる。が、多くはクリスマスとは無関係のように見える。
先日、銀座に行った。ツリーやイルミネーションが綺麗だった。さすがに銀座だなと思わせる上品な装飾である。
しかし、よく観察すると、クリスマスのシンボルがそぎ落とされている。ツリーにはベツレヘムの星はない。メリー・クリスマスという言葉もみあたらない。用いられているカラーは必ずしもクリスマスのそれとは限らない。
街のクリスマスは、もはや本来の意味を離れ、コマーシャリズムの道具となってしまっているようだ。
もちろん、昔からクリスマスはコマーシャリズムに浸食はされていたが、今日ほど、そぎ落とされてはいなかった。
牧師としては、そのような風潮を残念に思うとともに、教会の責任を感じる。
教会では心からクリスマスを喜び、独り子をお与えくださった神さまを礼拝したい。
立川談志
わたしは落語が好きだ。
20年近く前に、ある牧師にそのことを話したら、下世話と思われてしまった。あたっている。
同じ頃、芸の道につうじたある牧師に「談志より小三が好きだ」と言ったら、単純な人ですねという反応だった。あたっている。
実は、若いときに一番理解しにくい落語家が立川談志だった。耳が受け付けなかった。理解不可能だったのだろう。「ちゃんと落語らしい落語をしてほしい」というのがその時の思いだった。
談志さんほど落語に徹底して取り組んでいる噺家はいない、それほどの人なのに。
ちなみに理解しにくい二番目は三平さんだった。理由は書かない。
今は、もちろん、違う印象を持つようになった。談志さんも歳をとり円熟し、わたしも人生経験を積んだからだろうか。
しかし、違和感は少し残っている。うまい言葉が出てこないが、プライドの置き場所が、ということだと思う。
談志さん、お疲れさまでした。
教会創立128年記念礼拝
11月の第三日曜日を教会創立記念主日と定めている。
1883年11月のそのころに、カナダ・メソジスト教会からの宣教師がこの地に伝道よ教育の働きを始め、その最初の礼拝がささげられた。司式者はマクドナルド宣教師。この方は牧師であり医師であられた。
今年の記念主日礼拝は11月20日(日)で「十字架と復活の証人」と題する説教をさせていただいた。
今日は快晴・・・教会はバザー
バザーが11月としてはぽかぽか陽気のもとで行われました。
いろいろな方々が協力してくださいました。教会員のご家族や知人、教会学校の子どもたちとご父兄、有り難うございました。教会員の皆さんもお疲れ様でした。
良い天気だったせいか多くの方々が足を運んでくださいました。手芸品(これが今年も上出来、よいものばかりでした)、手作りケーキ(今年も売り切れで食べそこねました)、雑貨(来場者のお目当てで、多くの方が並んでくださった)、子どもコーナー(わいわいわきわき)、青年会焼きそば(熱い鉄板でやく焼きそば最高)、焼き芋(ご婦人たちに大人気)に綿菓子(子どもの友)、そして食堂(おいしかったと食べた人からの伝言)。楽しかったですね。
今日は雨・・・明日はバザー
明日のバザー準備のために皆さんがお集まりです。
私の役割は「好評の」綿菓子。
屋外なので雨がふると難しい・・・・
今日は雨、明日は・・・・バザー
福音主義教会連合総会で
2年に一度の総会が銀座教会を会場に行われた。日本基督教団は、かつてと比較すると、「伝道する教団の形成」へと大きく前進している。
しかし、合同教会である教団の有り様、宣教論などで、大きく二分されているのも事実であり、また、高齢化が進んでおり、伝道も大きな壁の前に立たされている。取り組むべき課題が多く、難問山積というのが実情である。
どのように道を切り開いていくか、その道筋を模索中である。主の導きを祈り求めなければならない。
福音主義教会連合はオピニオン・リーダーとしての使命を、よりよく、今後も果たしていかなければならない。私は副議長に選出されてしまった。若い指導者たちが育ってきているので世代交代のバトンタッチの役目を負えということだと理解している。
中途半端になってしまった
5日(土)の午後、東洋英和女学院の同窓会(東光会)のある会合で、日本基督教団の東日本大震災の復興・支援活動についてお話をさせていただいた。
プロジェクターを使ってお話を始めたが、時間配分を誤り、予定の半分しかお話をすることができなかった。中途半端になってしまい、申し訳けないことをした。
お話できなかった残りの半分は、
日本基督教団の復興・支援計画、現在の状況。そして、障がいをかかえた方々の現状と教会の役割。その2点である。
前者については教団のホームページで知ることができる。後者についての要点は、障がいをかかえた方々の身の置き所について配慮が必要であるということと、教会の日常を取り戻すことが大事だと思っているということである。
召天者記念礼拝
11月6日(日)は召天者記念礼拝として主日礼拝が守られた。
「天に宝を積むように」という説教をさせていただいた。聖書箇所はルカ福音書18章。
一般には「天に宝を積む」とは、この世で施しなどの善い業を行うと、それは天国の倉庫に宝を積むことになり、それによって神さまに喜んでいただき、天国に自分の場所を確保することができる、と解されているようだ。
しかし、聖書をよく読んでみると、神さまにより頼み、主イエス・キリストの恵みをドーンと受け止めさせていただくことが天に宝を積むことになる、そう教えられていることが分かる。
しかし、それは、決して易しいことではない。
HALLOWEENの夜、宗教改革記念日なのに
ほんの100mほどなのに、教会から表通りに出て行くとそこは別世界。
ハロウィンの夜は戦争。夜中の3時にパトカーからスピーカーの声が聞こえていた。
ハロウィンはカトリック教会の万聖節(すべての聖徒を記念する日)の前夜祭のことだが、そんなことはお構いなし、みな祭りが大好きで、加えて仮装することでいっそう盛り上がり、騒乱の夜となる。
ちなみに、10月31日はプロテスタント教会にとっては宗教改革記念日である。その日、マルチン・ルターがヴィッテンベルク城教会の扉に95箇条の提題を 掲示して神聖ローマ帝国全域に衝撃を与えた。
提題は、一般には贖宥券に対する批判と説明されるが、「正しい悔い改めとは何か」を問うたものである。
クルッと向きを変えて、みな、提題について考えてくれると良いのだかが・・・
十字架 〜キリスト教のシンボル〜
今日は婦人会。今年のテーマは教会のシンボル。いよいよ「十字架」を取り上げます。2〜3世紀だそうですね、カタコンベではT型が多く見られるとか。そんな話をします。
からし種一粒
一昨日の説教箇所はどこでしょう?「からし種一粒」という言葉が出てきます。正解は最後に書くとして・・・・
お昼のワイドショーを見ていたら、松下政経塾のことが取り上げられていた。野田首相以下、塾卒業の国会議員は30名異常いるとか。そんなことはどうでもよくて、野田首相がかつて若かりし頃に松下政経塾でのスピーチがほんの少し録画で紹介されていた。その中に「一粒の麦」という言葉が出てきたが聖書の中の言葉だということをご存知だろうなあ。
で、政界はルカによる福音書17章1−10。弟子たちが「信仰を増してください」と願いでたとき、主イエスが「からし種一粒の信仰」と。
膝を痛めました
右膝を痛めたのですが、皆が、太りすぎ、と。
改宗したわけではない
「アップル教」という言葉があると聞いた。創業者スティーブ・ジョブス氏とアップル製品への熱心な支持者(ファンボーイ」の存在が背景にあるようだ。
わたしはマックも使うようになったが改宗したわけではない。windowsはわたしの主力機種に代わりはなく、言ってみればエキュメニカルな立場になったということである。
