気が小さいと

わたしは気が小さい。

20代に初めて歯医者に行った。ジーという音が近づき、口のなかに器具が入ろうとするそととき、「先生、わたし初めてなんです」と口走ったのを思い出す。

気が小さいということは、思いがけない言葉を発することになる。

段ボール

普段、なにげなくお世話になっている段ボールだが、ある会合で段ボールでできた棺があるということを聞いた。安価なものだがしっかりとしているという。へえ、すごい。段ボールは侮れないものだと思った。

だが・・・・・わたしにはちょっと不安がある。それが何キログラムまで耐えられるのものなのか、ちゃんと調べなければならない。

パースペクティブ

私が身近にパースペクティブという語を聞いたのは20年ほど前のことだった。説教塾でK先生が説教におけるパースペクティブという問題を提起された。その語の意味をすくに理解した同僚牧師はほとんどいなかったと思う。今なお不透明であるが、聖書テキストがもつ神学的視野、説教黙想の視界、心に映し出される説教の造形などを表現する語なのかなと勝手に考えている。

この語は絵画の遠近法、透視図法の意で、目に映る像を平面に正確に写すための技法として一般に知られているが、最近、カメラのあるクチコミ掲示板で画角と遠近感等をめぐって話題になっているのを知った。議論は混乱している。それを読んで、立体的なものを人間の眼とは違って、レンズを通して一枚の平面上の写真に写し取ることが、あるいは、人間の眼に映る像というものが、そんなに単純なことではないのだなということが分かった。

パースペクティブ、分かって分からない語が、事柄の奥行きの深さへと誘う。

D600の噂

しばらく前から、ニコンD600が今夏にも発売になるのではないかとの噂が流れている。FX(フルサイズ)の廉価版で、軽量・小型化がはかられているようだ。FX機にバリエーションが増え。誰もが気楽に使えるようになる。

この噂が本当ならば、たぶん本当だと思うし、予想した通りだったのであるが、わたし個人としてはDX機を離れてFX機に全面移行することになると思う。

レベルが高い

昨夜は早く寝たので午前3時に目が覚めた。テレビでユーロ2012を観た。B組のポルトガルーオランダ戦とデンマークードイツ戦が同時に放映しており、4カ国とも決勝トーナメントへの可能性を残しての予選最終戦だ。

勝負には勝ち負けがつきものだ。ポルトガルとドイツがそれぞれ勝利し、あのオランダが3連敗で敗退という結果に。それは結果で、4カ国は互いに譲らず互角の戦いだった。レベルが高い。面白い。楽しかった。

昨日の説教 マタイ6章25以下

「思い悩むな」との主のお言葉。

24節の「神と富とにかね仕えることはできない」との言葉に導かれて綴られている。思い煩う人生だが神の御手のもとにあるのだということを教えられる。「空の鳥」「野の花」も、そして、わたしたちも。

その私たちの日々の労苦は、主のお言葉の中では隠れている。隠れて良いのだ。神の御手のもとに隠れてこそ「十分」なものとなる。

ついでにもうひとつ

やはり30前後のこと。
お金を無心するために、2、3ヶ月ごとに教会にやってくる長身の男がいた。乱暴な物言いで、珍しいタイプだった。
2回に一度くらい、少額をあげたと思う。
ある時、いつもに増して脅すような口調でお金を無心するので、「帰れ」とこちらも怒鳴って断った。ところがこの男、帰り際に教会のドアを強く蹴とばして去って行ったのである。ドアは壊れてしまった。

ところが、4年後のこと、私が転任して大阪の教会に赴任したのだが、この男、そこに現れたのである。しかし、私のことを覚えてはいない。
後から、分かったことだが、この男、四国の高知から大阪まで、教会を渡り歩いていたのである。いちいち牧師の顔を覚えておれないほど、たくさんの教会を訪ねていたのだ。

思い出した

まだ30になるかならないころのこと、お金を貸してくれとたびたび訪れる初老の人がいた。
決まって求めるのは500円。当時、仕えていた教会には少額であればそのために用いてもよいファンドがあり、何度か差し上げた。

ところが、ある時、頻繁に来るようになったので、今日はダメだと言って断った。翌日のこと、テレビの地方局のニュースで隣町で起こった事件が報じられた。
「タバコ屋さんに強盗に入った初老の男性が、お店のお祖母さんを脅してお金を奪って逃走、逮捕された。犯人が奪ったのは500円。」

凄惨な事件とMさんのこと

二人の方が亡くなった。まことにお気の毒なことであった。

犯人だが、刑務所から出所後、行き場がなく、死のうと思ったが死にきれず、死刑になれば死ぬことができるというので犯行に及んだ、と報じられている。

いろいろなことを考えさせられる事件である。

もう亡くなった方だが、長年、出所後の方々の社会復帰のために尽力されたMさんのことを思い出した。
小さな会社を経営し、出所後の方々が社会復帰できるまで仕事を与えて面倒をみられた。その数が三桁にもなった。80歳を過ぎて最後に引き受けたのは、少年院を出た青年だった。Mさんに連れられてその青年を引き受けに行ったことを思い出す。
Mさんの働きに、あらためて頭がさがる。

湯河原で協議会

二つの教団(教派)が毎年行っている宣教協議会に出席した。
伝道がテーマで神学的な講演と大阪釜ヶ崎でのホームレス伝道のケーススタディーがあった。興味深く伺った。
前者も後者も共通していたことは、贖罪信仰の重要性であった。

明日の説教

マタイ福音書5章43以下。
「隣人を愛し、敵を憎め」とはレビ記19章の律法を解釈した言葉。主イエスは「敵を愛し、迫害するもののために祈れ」と教えられたら。
悪意をぶつける隣人、不利益をもたらす隣人。その隣人を愛することは不可能である。しかし、主イエスは祈るようにと言われ、そこに隣人を愛する道があると仰せになっておられる。
祈るとはありのままの自分を、善人にも悪人にも太陽を昇らせ雨を降らせる神に見ていただくことだと思う。

メジャーリーグ

ダルビッシュは5回途中で降板、敗戦でしたね。勝ったり負けたりなのでしょうが、いつでも勝ってほしいという思いになります。別に熱烈なファンではないけれども、頑張ってほしいですね。他の日本人メジャーリーガーも同じです。

松井秀喜がメジャーに近々昇格という噂がありますが、期待してます。今年は契約に苦労したので、そのぶん活躍してほしいですね。

金環日食

わたしは見なかった。天気予報が曇りだったので「寝よう」と心に決めて、そのとおりに。午前1時に起きて一仕事をして、日食を待とうとも思ったが、雲に覆われた日食のために無理をすることもないと思ったのである。薄曇りで、東京でも金環日食を見ることができた、と後から聞いた。

日食は小学生のころに見た。その時は皆、下敷きを遣った。なるほど、こんなものなんだ、と思っただけで、ことに感激したという記憶はない。しかし、考えてみると、太陽と月が地球から絶妙な大きさに見えなければ陽と陰という感性は生まれなかっただろう。ドラキュラの物語も。そう考えてみると、聖書では月の印象が薄いのはなぜだろう。

昨日の説教

マタイ福音書5章1-11。山上の説教の最初に記されている「幸いの教え」である。

山上の説教は新約聖書の律法とも言えよう。ユダヤ戦争後のユダヤ教が律法を中心とするラビ的ユダヤ教として再出発しようとする、同じ時期にマタイ福音書は編まれた。教会には福音に根ざした律法解釈が求められた時代と言えよう。それは「幸いなるかな」という福音の響きによって語り始められる。

日曜婦人会

ふだんは毎月第3金曜日なのだが、年に2回、日曜日に婦人会がもたれる。

今年の主題は「旧約聖書の人々」。その第2回で「モーセ」を取り上げた。A4で4ページのレジメを作った。モーセを一回で話すのは難しいのでアウトラインを記した。読んだテキストは出エジプト記1-3章。レジメに解説文を添えた。そうそう、ミケランジェロのモーセ像の写真も添付。

新しいブログを作る

自分のブログではなくて、所属しているグループのHPである。機関紙を発行しており、35年になろうとしている。過去のものをPDF化して読めるようにという目論見なのだが、けっこう大変な作業である。Wordpress.comを使わせてもらった。やっと2年半分ができた。

明日の説教

マタイ福音書4章の漁師たちを弟子としてお召しになったというところ。
主イエスは漁師たちを弟子として招くために、彼らのところに赴かれた。ペテロたちは、従って行くことで弟子となったのではなく、主イエスが近づき呼び集めてくださったので弟子とされたのである。それは思いがけない出来事だったに違いない。
人を漁るという主イエスの言葉は、旧約聖書の預言者たちの言葉使いとは180度違って、罪人を神の国へと招くという意。これも思いがけないこと。弟子たちはその福音を身に帯びて、招くため遣わされる。エクレシア(呼び集められたものたち)の歩みは、ここにすでに始まっていた。

粗大ゴミ

わたしのことではない。15年前に購入したマッサージ・チェアーだ。

以前はよく使っていたが、最近はすっかり粗大ゴミとなってリビングで邪魔者となってしまっていた。今日、掃除に来て下さる業者さんが処分してくれるた。有り難い。

そういえば、最近、肩がこってマッサージが必要になるということがない。どうしたことだろう。

久しぶりの総武線

総武線に乗ることはめったにない。おそらく、市川方面に用事がないからだろう。
千葉には車で行くし、船橋には東西線を使う。
今日は市川に行く。正確には本八幡。
行き方はいろいろあるが乗り換えの少ない総武線に決めた。

D80はまだ6年前のカメラ

とおの昔のカメラ、ではない。発売からまだ6年。2006年9月。
同じクラスのニコン機は2008年にD90、2010年にD7000が発売されている。進歩は大変なもので、わたしの体重増加率など比べものにならない。
高感度撮影に関してはD80がISO100ー1600とされていたのに対してD7000は100ー6400である。画素数は1000万画素に対して1600万画素。ダイナミックレンジも大幅に向上している。シャッターユニットや、AF精度、ホワイトバランスなども格段に向上している。
それではD80はもう古臭い使い物にならないのかというとそうではない。普通に写真を撮る普通の状況では何の不足もない。撮影素子は今は使われなくなったCCDで、CMOS素子にはない味がある。要は使い方で、今でも十分な能力のあるカメラである。と思う。
わたしの所有するカメラの一つだ。

と書いたが、やっぱり不満が。AFのスピード、ダイナミックレンジだ。けっこう撮影時に神経を使う。それが楽しいと思えることができれば別だが。操作ボタンの反応も遅い、新しいカメラを使い慣れると、その遅さにイライラする。やっぱり6年間の技術の進歩はすごいものがあると思う。

でも、D80は愛すべきカメラだ。

聖書を読む会をお休みに

今週は休会。
朝早くIさんが召されたので、祈るためにご自宅にお訪ねした。
奥さまをはじめご家族の皆様のうえに御慰めを祈ります。

聖書を読む会ではロマ書を取り上げている。FEBCのCDを用いて、それを聴いて話し合い、祈る。
話し合うと言っても、聖書をより深く理解し、思いめぐらすためである。黙想をひろげることによって、聖書が近くなるようにということである。
大人数ではできないが、幸い?それができる人数なのである。