2019はtwitter元年

個人的にはすでにtwitterをはじめて何年目かになります。それなのに、今さら元年とはどういうことかと言うと、教会の交わりのために、また、聖書の言葉を囲む会話(共同聖書黙想)の広がりを目指して本格的にtwitterを用いるという意味です。

私自身は二つのアカウントを持っています。一つは教会の牧師/張田眞用、もう一つは裃を脱いだ/私用です。どちらもそれほどの違いはありませんが、前者はなるべく個人的な趣味や楽しみには触れずにいささか建徳的なツィートを心がけています。また、政治問題には触れないようにしています。後者はざっくばらんに日常的なあれやこれやをつぶやくようにしています。

それに加えて、教会のアカウントを作りました。公開と非公開です。公開のほうは教会の日常に関することや聖書に関することをささやき、誰に読んでいただいても支障のないものとし、非公開は聖書の言葉を囲む教会員の方々の交わりに供されます。後者は、軌道にのるのはまだまだ先のことですが、Twitter利用の目当てはそこにあります。

twitter の良いところ

それは140文字以内でツィートしなければならないことです。短い文章でやり取りすることに尽きます。コンパクトに一事を伝える、余計なことは省かれます。

余計なことを書きたければ、ツィートを重ねるということになります。それが良いです。

そして、それぞれのツィートに、いいねやリツィートで反応することができ、応答が的を射たものとなります。

つづく


画像

2018年は我が家に嬉しい出来事がありました。息子が結婚して新しい家庭をつくりました。二人で幸せな人生をおくってもらいたいと願っています。

イラストは恒例のクリスマスと新年の挨拶ハガキ2018ー2019年版です。娘が描きました。何年目になるでしょうか。すでに15枚にはなっているはずです。

私は退院して1年2ヶ月が過ぎました。おかげさまで退院時よりもずいぶん改善し、身体の動きが良くなっていますが、頭はダメですね。

それでも頭のリハビリにと読書を心がけています。今年読んだ本で印象に残っているのは國分功一郎著「中動態の世界」、久世濃子著「オランウータン」、伊藤亜紗著「目の見えない人は世界をどのように見ているか」、ヨシタケシンノスケ作「みえるとかみえないとか」、ボージャス著「移民の経済政治学」、シュレーマン「ルターのりんごの木」です。

来年はタクシーを利用して、一人であちらこちらに出かけて行けるようになりたいと思っています。はたしてどうなるでしょうか。

メリークリスマス。皆さまに上よりの祝福がありますようにと祈ります。

タブレット教室

タブレットの使い方に慣れていただきたいと願って、教会の方々に手ほどきをさせていただこうかと思っています。

私自身がそうなのですが、病気をしたり高齢になると自由に外出することが困難になり、教会を含めて社会的な交わりが狭く小さくなりがちです。

また、教会から遠く離れて居住しておられる方もいらっします。

将来、そのような環境に身を置くようになる可能性は誰にでもあります。そこで、今までは、牧師や信徒が訪問したり、電話をかけたり、手紙をお出しして結びつきを維持してきました。そのような手立てに加えて、すでにインターネットが普及していますから礼拝の様子を動画で配信したり、ネット会議のように集会に参加していただいたり、その他の方法でさまざまな仕方で交わりを持つことが可能になっています。

問題は、そのためのツールを使いこなせることが必要になります。かつてはパソコンということでしたがいささか仰々しく、使い方も難しく厄介な面も持ち合わせていましたし、使用する場所が限定されてしまいました。リビングで台所でベットでというわけにはいきませんでしたが、たった一枚の板で構成されているタブレットが普及してきて持ち運ぶことができるし、どこにいてもインターネットに繋がるようになりました。

例えば私は身体が不自由でなるべく負担の少ない姿勢を維持することが肝要です。パソコンも持っていますが、その前に座って作業するにはタイミングや時間の長さに制限があります。しかし、タブレットを利用して机やソファーに座っていても、ベッドに寝ていてもいつでもインターネットに繋がることだできています。一番楽な姿勢でできるので、負担が軽減されています。

何をするかと言うと、たいしたことはしませんが、メールの読み書き、ブログに書き込みこと(今まさにそれをしています)、SNSで多くの人との繋がりを得たり(音声ですることもあります)、原稿書きやkindleなどで本を読んだりしています。調べものもします。ということで、パソコンでする作業の90パーセント以上はタブレットでそれほど疲れることなく行うことができています。

タブレットとインターネットで教会に集いにくい方々に教会生活に出来る限り繋がっていて欲しいと願っています。そのためにタブレット教室を始めたいと考えています。

Gutenberg エディターにようこそ

Gutenberg を試してみよう

この新しいエディターのゴールは、WordPress へのリッチコンテンツの追加をシンプルで楽しくすることです。この投稿全体がコンテンツのパーツ—LEGO ブロックのようなもの—により構成されており、動かしたり操作できるようになっています。カーソルを動かすと、様々なブロックが枠線と矢印とともにフォーカスされます。矢印を押すとブロックをすばやく並び替えることができ、コピー & ペーストしているうちに内容が消えてしまう恐れがありません。

現在ご覧いただいているのがテキストブロックで、すべてのブロックのうち一番基本のブロックです。テキストブロックは、投稿内を自由に移動できる独自のコントロールがついています。

…例えば、右揃えのこれのようなものです。

見出しは別ブロックとなっており、コンテンツのアウトラインと構成に役立ちます。

百聞は一画像にしかず

画像とメディア取り扱いへの高い気遣いは、新しいエディターのメインフォーカスです。キャプションを追加したり、全幅にするのがより簡単で協力になっているのにお気づきいただけるでしょう。

美しい風景
テーマでサポートされていれば、画像ツールバーに「幅広」ボタンが表示されます。お試しください。

キャプションを選択、削除、編集してみてください。画像や他のテキストを間違って選択して、表示を台無しにしないよう気を使わずに済むようになりました。

「挿入」ツール

WordPress ができるすべてのことが、すばやく、同じ場所・インターフェイスで可能であると想像してみてください。HTML タグやクラスを理解したり、複雑なショートコード構文を覚える必要はありません。これこそが「挿入」ツール—エディター中にある (+) ボタン—の真髄で、すべての利用可能なコンテンツブロックを閲覧し、投稿に追加することができます。プラグインとテーマは独自のブロックを登録することができ、リッチな編集や公開の可能性を広げます。

お試しいただくと、WordPress が投稿に追加可能でありながら、ご存知ではなかったものを見つけていただけるでしょう、以下はこの投稿が使用しているブロックの簡単なリストです。

  • テキストと見出し
  • 画像と動画
  • ギャラリー
  • YouTube、ツイート、他の WordPress 投稿などの埋め込み。
  • ボタンやヒーロー画像、区切りなどのレイアウトブロック。
  • もちろん、このようなリストも ^^

ビジュアル編集

ブロックの大きな利点は、それぞれの場所で編集し、コンテンツを直接操作できることです。引用ソースやボタン内テキストなどを編集するためのフィールドを持つのではなく、コンテンツを直接変更できます。以下の引用を編集してみてください:

このエディターは、リッチな投稿や固定ページの作成を簡単にする、新しい執筆体験を生み出そうとしています。また「ブロック」によって、現在はショートコード、カスタム HTML、外部埋め込みコード自動ディスカバリー機能が実現していることをより簡単にします。

マット・マレンウェッグ、2017

引用の​​ソースに対応する情報は、画像下のキャプションに似た別のテキストフィールドです。このため、ソースを選択、変更、または削除しても、引用自体の​​構造は保護されます。いつでも簡単に戻すことができます。

ブロックは、必要なもの何でもかまいません。たとえば、テキスト構成の一部として目立たない引用符を追加してもよいでしょう。または、巨大で装飾的なものを表示させることもできます。これらのオプションはすべて挿入ツール内で利用できます。

サイドバーのブロックインスペクターでスライダーをドラッグすると、ギャラリーのカラム数を変更できます。

メディア重視

新しい幅広全幅配置をギャラリーと組み合わせると、非常にメディアリッチなレイアウトをすばやく作成できます。

アクセシビリティは重要です — 画像の Alt 属性をお忘れなく。

全幅画像はかなり大きくなる場合もありますが、画像によってはそうする価値があることもあります。

上は2つの画像のみのギャラリーです。フロート調整を行うことなく、魅力的な見た目のレイアウトを簡単に作成することができます。またブロックを切り替えて、ギャラリーを個別の画像へ簡単に戻すこともできます。

あらゆるブロックでこれらの配置を選択できます。埋め込みブロックでも利用でき、ボックス外でもレスポンシブ対応しています:

静的または動的、装飾的またはプレーンなものなど、お好みのブロックを構築できます。こちらがプルクオートブロックです。

Code is poetry

WordPress コミュニティ

追加ブロックを作成する方法を学んだり、プロジェクトに協力したりすることに興味がある場合は、GitHubリポジトリへ移動してください。


Gutenberg をテストしていただき、ありがとうございます !

👋

Twitter の勧めを、お年寄りに

お年寄りの方々へ、私も年寄りですが、Twitterでのツィートの勧め。をしたいな、と思っています。理由は、楽しく愉快に日々を過ごすためにです。

Twitterでは日々の思いや記憶を記録し(日記のように)、それを表現して、関心を同じくする人たちとの緩やかなつながりを得ることができます。これは若い人たちの専売(購買)特許ではありません。お年寄りにとってこそ、有用なものだと思います。
(以下に、twitterしている人にとっては当たり前のことですが、参考にtwitterの楽しみの一例を書きます。)

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涵養

哲学者の國分功一郎さんの朝日新聞への寄稿の中に「人物の涵養」という表現を見出しました。以下、引用です。

民主主義における平等にはもう一つ別の側面がある。平等に与えられた権利にふさわしくあるよう、自らの言葉や考えを鍛え上げることが期待されるという側面である。アレント(注:ハンナ・アレント、現代ドイツの哲学者)は古代ギリシアの民主政を参照しながら平等と同等を区別し、後者の重要性を強調した(『活動的生』)。民主主義は民衆に、政治参加の権利を行使するにふさわしい水準の者どもと同等の存在になろうとすることを求める。だから民主主義社会では、教育による人物の涵養(かんよう)や報道による情報提供の必要性を誰も否定しない。

民主主義が成り立つためには、教育によってそれに参与するに相応しい人物を育むことと、良質な情報の提供が不可欠であると述べておられるわけです。

私は、「人物の涵養」という言い回しにここで初めて出会いました。もちろん、「霊性の涵養」という言い回しには馴染みがありました。それはキリスト教的背景のもとで語られていることです。「霊性」とは私の理解では、絶対他者である神による義と愛と平和によるご支配(すなわち神の国)を待望しつつ、それに向かって身を向け、かつ持続的にそこに向かい、牽引することができる気質のことです。

いずれにしても、それが培われるには雨が土の中に染み込んで、長い年月を経て帯水層を成すように(それが涵養という意味ですね)、長い年月を要する育みによるということです。その育みは良き伝統を継承し、さらに伝統を形成し続けようとする社会があってのことでありましょう。現代社会のように、経済中心で、移り変わりの激しい消費社会においては不可能なことなのかも知れません。民主主義の危機ということが言われているとすれば、そのあたりのことに深層があるのかも知れません。

浜松ギョウザとスフレパンケーキ

昨日(9月24日)、餃子の石松本店に行ってきました。二人の牧師が誘ってくれて、病後はじめての餃子屋さんでした。上品なお店で、味の分からない私にも食べやすい餃子でした。

浜松餃子というのはいつ頃から有名になったのでしょうか。20数年間、三方原に住んでいましたが印象に残っていません。5年前に浜松に戻ってきて浜松餃子が浜松の名物になっていることを知り驚きました。

石松さんは浜松餃子発祥の店と聞きましたが、真偽は分かりません。ある人が石松さんの餃子が浜松餃子のスタンダードと思って味わい、それを基準にして他店の餃子を味わってみたらいいんじゃないかと言われたので、なるほど、それもいいなと思っています。

昨日は餃子20個の単品と水餃子2種類をいただきました。だいぶ胃が小さくなったので、食べすぎ感があります。そのあと星乃珈琲店で星乃ブレンドとスフレパンケーキで楽しい時間を過ごしました。

ご老人にタブレットやスマホを

昨年、5ヶ月以上入院し、退院後、自由に外に出て歩き回ることができない身です。どうしても、情報を得、あるいは他の人と交流するのはインターネットを通してということになります。

そこで、最近はまっているのがSNSです。FacebookやTwitterですね。Facebookは親しい人たちとの交流のために有用ですがTwitterでは、使い方つぶやき方を身につけると見知らぬ人との思いがけない出会いや、有用な種々な情報を得ることができます。

私はおもにiPadを使っています。自分の好きな時間にできるので都合が良いです。きっと歳をとっても、いつまでも、SNSを続けると思います。もし、再び入院することになった時には、できたらwifi環境が整っている病院にお世話になりたいです。

もちろん、今の時代ですから無線通信が手軽に利用できるので、どこにいても大丈夫ですが。

で、私はお年寄りに、また、お年寄り候補の方々に、タブレットでインターネットに親しむようにお勧めします。スマホでも良いですが、液晶画面が小さいでしょ。

 

嫌な知らせ

友達から聖路加国際病院で起きた事件について知らせがありました。嫌な出来事です。

一部報道によると病院職員で牧師が引き起こしたとのこと。そして、その牧師は私と同じ日本キリスト教団に所属と言われている。

調べてみたら、正確には無任所教師という身分で、現在は教会での務めにはあたっていない、無所属の教師ということです。牧師という呼称は日本キリスト教団では教会に仕えている担任教師を指していますので、この人は牧師ではありません。世間一般には牧師ということになるのでしょう。

肩書きということでいうと、この方はカタカナ表記の派手で意味不明の肩書きを自称しておられます。スピリチュアルケア・スーパーヴァイザーというのがその一つです。ベッドサイド・カウンセリング(これは内容が良く分かります)というのは聞いたことがありますが、スピリチュアルケアは新しい言葉のように思われます。いっときスピリチュアリティーという語がもてはやされたので、それに関連して生まれたものでしょう。しかし、スピリチュアリティーという語は明確な定義がなされていないのが現状です。スピリチュアルというとなんとなく通じるように思われるかもしれませんが、曖昧な言葉です。しかも、大きな大げさな表現ですがスーパーヴァイザーという身分が何を指すのか分かりません。

わたしには詐欺的と感じられます。誇大広告です。

嫌な事件です。事実関係が明確になって、私たちの教団は自浄作用を高めねばならないと思います。

思いのほかの疲労感

療法士さの説明によると、何かをすると疲労感が大きいのは(思いのほか疲労するのは)麻痺した左半身を動かしていることと、バランスをとったり足下など周囲に注意をはらったりして緊張するからだそうです。その通りだなと思います。
歩き慣れたところを歩くよりも慣れないところを歩くほうがずっと疲れます。歩く時にも頭を使って、神経をとがらせています。頭を使う?日々です。
最近は疲労感が少なくなってきました。そう感じるこの頃です。有り難いです。

リハビリ雑感

脳出血により病院に運んでいただいて一年3ヶ月が過ぎました。

出血が一応治り、安定するまでの期間を除いて、本格的にリハビリを受けるようになって1年2ヶ月、リハビリテーション病院を退院して10ヶ月がたちました。

入院時には左半身が見事に麻痺して左は感覚もなく、もちろん脚も腕も自ら動かすことができませんでした。リハビリの先生に身を委ねて、そんな状態からリハビリを受け始め、そのうちに、体を支えていただいてベットから車椅子への移乗ができるようになり、そして、左脚に装具をつけて平行棒を頼りに立ち、右足が丈夫だったのでそれを支えとして、見守りのもとベッドから車椅子に(自分でというのは大げさですが)まあ自分で移乗することができるようになりました。また、平行棒の間を数歩脚を前に進めることもできるようになりました。こんな感じです。

平行棒の右側のバーを右手でガッチリと 掴み、それが安全棒となって、右脚を半歩前に出します。そしてその右脚に体重を乗せると、左脚が振り子の原理で前に出ます。その左脚と平行棒ほんの少し体重を移動して、右手で平行棒を掴んでそれを頼りに右脚を浮かせて平行棒を

つづく

 

ニュースをみての雑感

  • 生産性云々のこと。出産が生産にいとも簡単に言い換えられる時代になってしまっているのかなあと思わされました。経済、すなわち生産と消費が社会の仕組みの根幹となり、人間の営みがそれに追従する時代になって久しい。けれども、「人はパンだけで生きるのではない。」という言葉を心に刻むようにしたいものです。
  • 某医大入試のこと。女性差別、男女不平等として問題視される傾きを感じますが。医療体制を整える苦労・苦心が背景にあるのだと思います。医療機関において女性の働きやすい環境を整えることは大切な課題だと思いますが、病者にとって充分助けとなる医療体制が整うことはもっとも重要な課題だと思います。難しい課題です。それを誰が考え整えるというのでしょうか。考えてみなければなりません。少なくとも、某医大の入試試験を涼しい顔をして論外と言い放つ政治家は信頼できません。
  • アマチュア・ボクシング連盟に関すること。競技には勝敗が伴いますが、勝敗だけが競技者にとっての意義や価値ではないでしょう。競技そのものの楽しみを普及して欲しいと思います。そのためには、競技のルールや判定が適切であることが重要になりましょう。たわいもないゲームであってもルールを守ることでその楽しみを共有できるのですから。「公平・公正にジャッジするように」と指導するのが指導者なのではないでしょうか。
  • 死刑執行のこと。死刑廃止論があります。そうあれば良いと思いますが、死刑制度の存在が非現実的であるとは必ずしも思いません。昔の「目には目を、歯には歯を」という法には意味がありましょう。それ以上の報復を欲するのが人間ですから。今日も残念ながら変わることはありません。

忍耐とはギ語で大きな心と綴ります

PCやタブレットで文字を打ち込むことに随分慣れてきました。打ち間違いも少なくなってきました。(打ち間違いが多かったのは明らかに病気のせいです。病気をする前も誤字脱字が多かったかな??)ですが急いで作業をしたいと思うと、両手ブラインドタッチで打っていた時代を思い出して、ストレスを感じ、イライラすることがあります。しかし、焦ってはいけません。全てのことでそうなのですが、少しづつ少しづつと言い聞かせて前に進むようにしています。たぶん、病気をする前に比べて忍耐力が養われていると思います。そして、じわじわっと希望というか、さらに忍耐して大切なことを積み重ねていこうという思いがふくらんできます。ちょっと嬉しい経験です。・・・・・お腹は膨らみませんよ。

iPadで音声入力

音声入力のテスト中です。なかなか調子がいいです。これは楽ですね。こんなにスムーズに文章を音声で綴ることができるとは思いませんでした。大いに使っていきたいと思います。それにしてもiPadの進化には驚きます。

久しぶり

何年ぶりでしょうか、久しぶりにwordpressでwebサイトの立ち上げ作業をしました。病気をしたせいもあるかと思いますが、忘れていることがあったり、wordpressに新しい機能が加わっていたり、デザインの流行りに変化があったりと、戸惑うことが多々ありました。

苦労するというほどのことではありませんが、やっとこさ、最低レベルのものではありますが、サイトと表示枠を構築(大げさですね)することができました。

そうしたら、ある人が私の教会のホームページも作ってくださいと言ってきました。どうなることか。

私の病

身体的なことではありません。新しい物好き、それが私の病です。ことに、カメラとPCに関してはそうだと言わざるを得ません。幸い、脳出血後は左半身麻痺のせいで写真を撮ることがままならなくなり、カメラを新しく購入することはなくなりました。しかし、PCはそうはいきません。身体が不自由になったので、より自分に適した物はないか、見つけては手に入れるようになりました。

ある人が、病気をする前のことですが、君は買っては捨て買っては捨てだなあ、と私に言うので、なるほどと思い、自分を「買っては捨て爺」と命名しました。この名をどこかで見つけたら私のことです。

わたしのこの病は、現在、タブレットとスマホで進行中です。スマホはiPhoneで一応おさまっていますが、タブレットはそうはいきません。主に今はiPadを使っていますが、新製品に関心が向きます。今月、新しいiPad proが発売されると言う噂が流れ、期待して待ったのですが、噂は噂に終わりました。残念でした。

iPadで何をするかと言うと、簡単な文章を作成してブログにアップすること(今、それをしてるところです)やネットサーフィン、メモ(情報収集と保存と整理)や動画作成編集、プレゼンテーションの作成です。分かってきたことですが、iPadとiPad proそれぞれの新旧機種は、同じように見えても使ってみると微妙な違いがありますね。ほんの少しの違いです。身体に不自由がなければ気にならないようなことですが、その違いが今は大きく感じます。少しでも、使い勝手が良い物をという思いになるのです。病は続きます。

iPad用ブラウザsmooz

使い始めてみました。なかなか良いですね。なによりも動きがスムーズです。便利な機能が色々と織り込まれており、使い勝手が良いです。

また、種々の設定や機能選択へのアプローチが簡潔です。

今後smoozがiPadでは主プラウザになるでしょう。

3時間かかる

昨日車椅子を押してもらって、家内のスマホを機種変するために近くのドコモショップへ。

親切に対応してもらったが、3時間かかった。ちょっと長すぎた。正直疲れてしまった。今日は午前中に昨年入院したリハビリテーション病院で定期の受診。午後訪問リハビリを受けたが疲れが残っていて、辛かった。直後に爆睡。

こうやって少しずつ体力がついていくのだと思う。

毛づくろい

Twitterでフォローしている勝間さんのブログを書く理由です。「サル山のサルの毛づくろいのようなもの」は面白い。人間社会では「毛づくろい」が失われてしまって挨拶もしない社会になって、閉塞していないか、と考えさせられました。個人情報が知られないようと神経を使い、そうすることで個人を守らないといけないと思い込んでいる。殺伐とした社会に生きているのだから、と。「毛づくろい」などあり得ない。しかし、本当のところはそれを必要としているのではないだろうか。殺伐とした社会を助長していないか、少し考えて見なければならないと思う。

センチメンタル?サクラメンタル?

29日は「サクラメンタル・ジャーニー」という説教題にしました。

「センチメンタル・ジャーニー」を捩りました。同名の歌を松本伊代さんが歌ったり、同じくリンゴ・スターの曲名にも採用されて親しまれています。おおよそ旅は感傷的なものですが、元々は英国の作家

ローレンス・スターンという英国国教会の牧師が綴って、1768年に出版された紀行文の書名『センチメンタル・ジャーニー』(A Sentimental Journey)によって広く親しまれるようになりました。このローレンス・スターンを彼の代表作から影響を受けた夏目漱石が日本に最初に紹介しています。紀行文センチメンタル・ジャーニーは静養を兼ねた大陸旅行の体験から生まれた作品です。著者は結核を患っていたのです。そして、大陸旅行は人生の最後の旅となりました。その後、病状が悪化、同年3月ロンドンで没したと言われています。牧師の綴った人生最期の紀行文なので読んで見たいと思うのですが、日本語で読めるのかどうかわかりません。

さて、わたくし達には一つの旅路が始まっています。サクラメンタル・ジャーニーです。それは、神の不思議な御手に導かれる御国への旅路で、私たちの人生の導きとなっており、救いを辿って行く旅です。

 

二枚舌?

このところ歯の治療をしています。

先日、大きく口を開けて奥歯の治療を受けていたのですが、歯科医の先生が

「張田さんは舌が大きいから治療しにくいわ」と言われるので、

「私の舌は二枚あるでしょうか。」と訊ねると、

「そうね、うーん、三枚かしら」とのお返事をいただきました。

 

 

信仰者の葛藤とその目覚め

15) ὁ γὰρ κατεργάζομαι οὐ γινώσκω· οὐ γὰρ ὃ θέλω τοῦτο πράσσω, ἀλλ’ ὃ μισῶ τοῦτο ποιῶ.

ローマの信徒への手紙7章を読み直す

7章にはある「葛藤」が描かれています。たとえばこうです。15節です。「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」神の良き律法を行うことができないで葛藤している様子が語られています。

印象深い言葉ですが、この言葉を含む7章の解釈について、古来、決着していない議論、論争があります。2つあるいは3つのことを焦点として論じられています。一つは、ここに描かれている葛藤は、いったいパウロの個人的な経験なのかそうでないのかです。その場合、2つ目のことになりますが、この葛藤は回心以前の人間のことなのか回心後のことなのかです。そしてもう一つは、そもそもこの葛藤とはいかなる事態なのかということです。分かりにくいのですが、今は三のことに焦点を当てて読み直してみたいと思います。

読み直すきっかけとなったのはある書物を通して動詞の態の一つである中動態についての関心を喚起されたからでした。中動態と言うのは今は失われていますが古典ギリシャ語や聖書のギリシャ語に存在していた動詞の性質に関する文法上の説明の仕方の一つです。よく知られているものに能動activeと受動passiveとがあります。説明は不必要でしょう。ところがそのいずれでもない中動middleという性質を持った動詞の形態があったのでした。文法という文章の仕分けの仕方が編み出された時、そう呼ばれるようになりました。近代人には捉えがたいのですが、能動でも受動でもない別のもう一つの動詞の形態です。
私たちは能動ー受動という対立(対称)の図式で物事を考えることにすっかいなれ親しみ、意志や主体性、そして責任という観点から自分も含めて人間の行為をとらえようとしていますが、それとは別の言語の世界、捉え方がその昔にはあったのでした。それが中動と呼ばれる世界です。
ところで、ギリシャ語は語の語尾の変化によって能動であるか受動であるか中動であるかが示されます。そして中動の語尾変化は受動態に似ています。能動とははっきりと異なっています。ところがその意味は能動である、と一般に説明されます。分かって分からない説明ですが、それを真に受けて普通は能動の動作として翻訳されるのです。
ところが、この中動態と格闘し、それが何かを探求し、中動態の世界に案内しようとしてくれている哲学者が現れました。國分功一郎という人です。著作は「中動態の世界ー意志と責任の考古学ー」です。『医学書院』と言うところから発行されています。それは、依存症からの回復と取り組んでいる人たちとの関わりから生まれた著作であることを物語っています。後書きでこう記しておられます。「私はそこで依存症の話を詳しくうかがいながら、抽象的な言葉では知っていた『近代的主体』の諸問題がまさしく生きられている様を目撃したような気がしたのだと思う。『責任』や『意志』を持ち出しても、いや、それらを持ち出すからこそどうにもなくなっている悩みや苦しみがそこにあった。」

私の読解力の乏しさがおもな理由であるが、まだ腑に落ちないところもある。けれども、興味深く読ませていただいた。
思い出してローマの信徒への手紙7章15節をひらいてみると、やはり「私がしていること」と訳されている語は中動態であった。中動態で言い表される他に言いようがない事態がここに表現されているように思われます。

今日はここまでです。続きは後の日に。

15) ὁ γὰρ κατεργάζομαι οὐ γινώσκω· οὐ γὰρ ὃ θέλω τοῦτο πράσσω, ἀλλ’ ὃ μισῶ τοῦτο ποιῶ.

もがいていた貴重な時代4その2

もがいていた時代に何をしたか。説教のための学びと共同の研鑽をしました。今回は、その話の2です。
2、同僚の牧師たちと毎週同じテキストで説教をするようにして、一緒に説教準備のための黙想をするようにしました。これが今回のお話です。

当時、大阪の豊中にいました。近くの箕面というところに同年輩のS牧師が、少し離れていますが茨木で担任教師をしていたN伝道師がいました。発端を忘れてしまいましたが、3人で毎週木曜日の夜に集まって説教の準備として黙想をするようになりました。時間は早くて午後8時くらいから遅くなると午前2時くらいまででした。会場は茨木教会の伝道師館です。建て直した直後で、立派な住宅、快適に黙想会をすることができました。
大阪というところは面積が狭いので、交通量の少なくなる夜は、短い時間で行き来できます。私が箕面のS牧師を迎えに行き、茨木まで出向いたのでした。その車の中での会話について思い出があるのですが、後日にということにします。
黙想会で、何をしたかというと、まずギリシャ語テキストを開いてしばらく黙読をします。次に、テキストを巡って自由に話し合います。基本的にはそれで終了です。テキスト黙読が30分くらいだったでしょうか。黙読といってもテキストを眺めるということです。その後の話し合いは、たいがいS牧師が口火を切りますが、3人で一緒に一つのテキストを覗き込む、ことになります。テキストの個性に気づき、共通の認識を持つようになります。解釈が困難なことにぶつかると、N伝道師がおもむろに厚いドイツ語注解書を開きここにはこう書いてあると紹介してくれます。ピンとこないこともありましたが(簡便に利用できるような注解書はありませんよね。)そそれなりに参考になりました(窓を開けて外の空気に触れるというような感じですね。)。そうしているうちに自然に黙想が深まって(広がって)いきます。テキストをめぐって、さらに、それに触発されて教会のこと、人間や社会のことなどが話題に上がります。そしてテキストに戻ってきて、神学的霊的(当時は霊的という自覚はありませんでしたが)な事柄へと移り、書物を通して知ることのできていた説教者や神学者や文学者、哲学者の言葉(表現)などが思い出されては披瀝されます。この一連の黙想ではS牧師が大いに賜物を発揮してくれました。そして、N伝道師の聖書学の関心からの発言などが加わり、やりとりが続いていきました。私はというと二人の話をじっと聞くという役割り?でした。
ここで開いて黙想をしたテキストで、三人はそれぞれの教会で説教したのです。ですから、時にはその録音を持ち寄り、説教批評会をすることもありました。
4年間続いたでしょうか。この黙想会を通して教えられたことは多々ありました。貴重な経験でした。それらのことについては後日、少しづつご紹介したいと思います。
続く