明日の説教

マタイ福音書5章43以下。
「隣人を愛し、敵を憎め」とはレビ記19章の律法を解釈した言葉。主イエスは「敵を愛し、迫害するもののために祈れ」と教えられたら。
悪意をぶつける隣人、不利益をもたらす隣人。その隣人を愛することは不可能である。しかし、主イエスは祈るようにと言われ、そこに隣人を愛する道があると仰せになっておられる。
祈るとはありのままの自分を、善人にも悪人にも太陽を昇らせ雨を降らせる神に見ていただくことだと思う。

昨日の説教

マタイ福音書5章1-11。山上の説教の最初に記されている「幸いの教え」である。

山上の説教は新約聖書の律法とも言えよう。ユダヤ戦争後のユダヤ教が律法を中心とするラビ的ユダヤ教として再出発しようとする、同じ時期にマタイ福音書は編まれた。教会には福音に根ざした律法解釈が求められた時代と言えよう。それは「幸いなるかな」という福音の響きによって語り始められる。

新しいブログを作る

自分のブログではなくて、所属しているグループのHPである。機関紙を発行しており、35年になろうとしている。過去のものをPDF化して読めるようにという目論見なのだが、けっこう大変な作業である。Wordpress.comを使わせてもらった。やっと2年半分ができた。

明日の説教

マタイ福音書4章の漁師たちを弟子としてお召しになったというところ。
主イエスは漁師たちを弟子として招くために、彼らのところに赴かれた。ペテロたちは、従って行くことで弟子となったのではなく、主イエスが近づき呼び集めてくださったので弟子とされたのである。それは思いがけない出来事だったに違いない。
人を漁るという主イエスの言葉は、旧約聖書の預言者たちの言葉使いとは180度違って、罪人を神の国へと招くという意。これも思いがけないこと。弟子たちはその福音を身に帯びて、招くため遣わされる。エクレシア(呼び集められたものたち)の歩みは、ここにすでに始まっていた。

宣教論に関すこと

1960年代から1980年代にかけて提出された宣教に関する主張と重要な出来事、という題で原稿を書いた。日本基督教団のことである。紙面の都合で5000字にまとめた。
日本基督教団は1941年に日本における福音主義教会が合同して設立された合同教会である。1950年代に信仰告白が制定されて一つの教団として整えられていった。
教会には聖書(正典)と信仰告白と職制とが必要条件とされているが、それぞれ合同した旧教派の伝統に従って各個教会は存立していたが、信仰告白制定 によって日本基督教団として公同の教会の交わりに入ったのであろ。そして、1960年代から礼拝や宣教を整えるべく種々の作業が始まるのであった。
宣教基本方策、宣教基礎理論が1963年までに作られ、社会活動に関する基本方針が1966年に定められた。それらは半世紀を越えた現在において正式な方策、基礎理論、方針として現存している。もちろん、今もそれらが妥当性を有しているということではない。もっとも、社会活動に関する基本方針は現在でも通用するもので、理解を深め、共有することができたら良かったと思う。
それらが、今もそのまま現存している理由は、1969年に始まった教団紛争のためである。ヘルメットとゲバボウによって象徴される、暴力と威嚇によって、会議が崩壊させられ、ラディカルナな新左翼運動に影響された人々とそれに同調する人々によって教団政治が席巻されたのである。彼らはその思想を教団に持ち込み、奇妙な宣教論を蔓延させた。それは、建設的なものでも、歴史形成的なものでもない、一種のユートピアニズムである。そのために教団は混迷し、立ち往生することに。それが理由である。
そのあたりのことを、もう少し詳しく論述したのでありました。

倣う

「イエスに倣う」という言葉がある。同名のよく知られた書物がある。敬虔主義の流れにある教派では古典の一つとして今でも読まれているようだ。

最近、この言葉を使って自らの思想を表現している人がいるということを知った。この人は伝統的なキリスト教神学からは離れるという自覚をお持ちのかたである。

さて、倣うとは「手本とする」ということだが、今日のように聖書学の立場から史的イエスを描き出すことが困難な時代に、いったいどのようなイエスを手本とするというのだろうか。

アルバート・シュヴァイツアーが聖書学者でもあったということは牧師の世界ではよく知られていることであるが、彼はかつて「10人の研究者がいれば10人のイエス伝が生まれる」という意味のことを言った。それは、結局は「イエス伝」と言っても研究者の思い描く、その人の思想の反映にすぎないということを述べているのである。

同じように、イエスに倣うといっても、そのイエスは結局は自分の思想の反映であり、手本などと言えるようなものではないのではないか。この方は戒規を受けたのだが、所属する教派に対して、牧師としての身分確認と年金損害賠償を求めて裁判所に民事で訴訟を起こした。自分の身分、自分の年金、その権利を戒規如何にかかわらず主張し、この世の裁判に訴えるというのは、どこにその手本があるのだろうか。

教会創立128年記念礼拝

11月の第三日曜日を教会創立記念主日と定めている。

1883年11月のそのころに、カナダ・メソジスト教会からの宣教師がこの地に伝道よ教育の働きを始め、その最初の礼拝がささげられた。司式者はマクドナルド宣教師。この方は牧師であり医師であられた。

今年の記念主日礼拝は11月20日(日)で「十字架と復活の証人」と題する説教をさせていただいた。

今日は快晴・・・教会はバザー

バザーが11月としてはぽかぽか陽気のもとで行われました。

いろいろな方々が協力してくださいました。教会員のご家族や知人、教会学校の子どもたちとご父兄、有り難うございました。教会員の皆さんもお疲れ様でした。

良い天気だったせいか多くの方々が足を運んでくださいました。手芸品(これが今年も上出来、よいものばかりでした)、手作りケーキ(今年も売り切れで食べそこねました)、雑貨(来場者のお目当てで、多くの方が並んでくださった)、子どもコーナー(わいわいわきわき)、青年会焼きそば(熱い鉄板でやく焼きそば最高)、焼き芋(ご婦人たちに大人気)に綿菓子(子どもの友)、そして食堂(おいしかったと食べた人からの伝言)。楽しかったですね。

 

福音主義教会連合総会で

2年に一度の総会が銀座教会を会場に行われた。日本基督教団は、かつてと比較すると、「伝道する教団の形成」へと大きく前進している。

しかし、合同教会である教団の有り様、宣教論などで、大きく二分されているのも事実であり、また、高齢化が進んでおり、伝道も大きな壁の前に立たされている。取り組むべき課題が多く、難問山積というのが実情である。

どのように道を切り開いていくか、その道筋を模索中である。主の導きを祈り求めなければならない。

福音主義教会連合はオピニオン・リーダーとしての使命を、よりよく、今後も果たしていかなければならない。私は副議長に選出されてしまった。若い指導者たちが育ってきているので世代交代のバトンタッチの役目を負えということだと理解している。

召天者記念礼拝

11月6日(日)は召天者記念礼拝として主日礼拝が守られた。

「天に宝を積むように」という説教をさせていただいた。聖書箇所はルカ福音書18章。

一般には「天に宝を積む」とは、この世で施しなどの善い業を行うと、それは天国の倉庫に宝を積むことになり、それによって神さまに喜んでいただき、天国に自分の場所を確保することができる、と解されているようだ。

しかし、聖書をよく読んでみると、神さまにより頼み、主イエス・キリストの恵みをドーンと受け止めさせていただくことが天に宝を積むことになる、そう教えられていることが分かる。

しかし、それは、決して易しいことではない。

からし種一粒

一昨日の説教箇所はどこでしょう?「からし種一粒」という言葉が出てきます。正解は最後に書くとして・・・・

お昼のワイドショーを見ていたら、松下政経塾のことが取り上げられていた。野田首相以下、塾卒業の国会議員は30名異常いるとか。そんなことはどうでもよくて、野田首相がかつて若かりし頃に松下政経塾でのスピーチがほんの少し録画で紹介されていた。その中に「一粒の麦」という言葉が出てきたが聖書の中の言葉だということをご存知だろうなあ。

で、政界はルカによる福音書17章1−10。弟子たちが「信仰を増してください」と願いでたとき、主イエスが「からし種一粒の信仰」と。

メソジストについて

今夏、ある小さな会合で「メソジスト教会の特質」という題で1時間半ほどお話をする機会があった。わたしが現在仕えているのが旧メソディスト教会の流れにあるのでお話を頼まれた。

わたし自身はメソジストという自覚はないが、ジョン・ウェスレーについての耳学問と、わたしはそこから離れたけれどもメソジストの流れを汲む教派で育ったので、なんとなくわたしなりのメソジスト像が出来上がってきている。

今回は、ウェスレーについての紹介、19世紀の英米のメソジストの簡単な歴史、日本におけるメソジストの伝道と教会の特質、という内容でお話をした。もとより専門家ではないのでいささかいい加減なお話であった。ただ、日本基督教団では旧メソディスト教会の流れを汲む教会が多くあるにもかかわらず、メソジストについての関心が低く、その知識も貧弱なものとなっているので少しは関心を喚起できたのではないかと自負している。

金持ちとラザロ

今日はルカによる福音書16章19ー31でした。イエスさまがお話になった「金持ちとラザロ」の譬です。

あるご婦人が「ラザロはけなげなな人ですね。聖書を読んでいて涙が出ました。」と言われました。大きな病を経験された方です。どのようなお気持ちを言い表しておられるのか、わたしの思い巡らしがはじまりました。