エピグラムと古代ローマ CⅩⅩⅩⅡ(最終回)

…ipse, per licita atque illicita foedatus, nihil flagitii reliquerat, quo corruptior ageret, nisi paucos post dies uni ex illo contaminatorum grege, cui nomen Pythagorae fuit, in modum solennium coniugiorum denupsisset. Inditum imperatori flammeum: visi auspices, dos et genialis torus et faces nuptiales: cuncta denique spectata, quae etiam in femina nox operit.

この引用文は、ローマ帝国の皇帝ネロに関するタキトゥスの『年代記』からの一節です。以下に日本語訳と文法的解釈を示します:

日本語訳

「…彼自身は、合法と不法の両方によって堕落し、もはやこれ以上卑劣に振る舞うことのできない状態だった。ところがその数日後、彼はその汚れた一団の一人、ピュタゴラスという名の男と、正式な結婚の形式に則って婚姻を結んだ。皇帝には花嫁のヴェールが被せられ、占い師たちが立ち会い、持参金や婚礼の寝台、結婚式の松明も用意された。要するに、女性の場合でさえ夜の闇が隠すようなすべてのことが、公然と見せられたのである。」

文法的解釈

・「ipse, per licita atque illicita foedatus」: 主語「ipse」(彼自身は)に対する分詞句。「foedatus」は完了分詞で「汚された、堕落した」の意。「per licita atque illicita」は「合法と不法を通じて」という前置詞句。

・「nihil flagitii reliquerat」: 過去完了形の動詞「reliquerat」(残していた)と直接目的語「nihil flagitii」(恥ずべき行為の何も)。「何の恥辱も残していなかった」つまり「あらゆる恥ずべき行為をすでに行っていた」の意。

・「quo corruptior ageret」: 比較級「corruptior」(より堕落して)を含む副詞節で、「quo」は「それによって」の意。「より堕落して行動するための手段」を表している。

・「nisi paucos post dies」: 「もし〜でなければ」という例外を導入する表現。「数日後に」という時間表現。

・「uni ex illo contaminatorum grege, cui nomen Pythagorae fuit」: 「汚れた一団の一人、その名はピュタゴラスだった者に」という与格表現。「cui」は関係代名詞で「その人に」を意味する。

・「in modum solennium coniugiorum denupsisset」: 「denupsisset」は接続法過去完了形で「結婚した」の意。「in modum」は「〜の方法で」という表現。「solennium coniugiorum」は「正式な結婚式の」という属格。

・「Inditum imperatori flammeum」: 受動的表現。「imperatori」は与格で「皇帝に」、「flammeum」は「花嫁のヴェール」を意味する名詞。「皇帝に花嫁のヴェールが被せられた」。

・「visi auspices, dos et genialis torus et faces nuptiales」: 名詞の列挙。「占い師たちが見られ、持参金と婚礼の床と結婚の松明(が用意された)」。

・「cuncta denique spectata, quae etiam in femina nox operit」: 「cuncta」(すべてのことが)は「spectata」(見られた)という完了分詞の主語。「quae」は関係代名詞で「それらは」の意。「etiam in femina」は「女性の場合でさえ」、「nox operit」は「夜が隠す」という現在形の動詞。

作者について

この文章の作者はコルネリウス・タキトゥス(Cornelius Tacitus、約56-120年)です。タキトゥスは古代ローマの歴史家、政治家、雄弁家として知られています。彼は帝政ローマ時代の重要な文学者であり、その厳格な道徳観と鋭い洞察力で知られています。主な著作には『年代記(Annales)』、『歴史(Historiae)』、『ゲルマニア(Germania)』、『アグリコラ伝(Agricola)』などがあります。

文章の文脈と解釈

この引用は『年代記』の一部で、ローマ皇帝ネロ(在位54-68年)の道徳的堕落と異常な行動を描写しています。タキトゥスは皇帝ネロが男性のピュタゴラスと結婚式を挙げたという出来事を非常に批判的に記述しています。

タキトゥスの文体の特徴として、簡潔で格調高い表現と、道徳的な堕落に対する強い批判精神が挙げられます。この文章では、ネロの行動を「恥ずべき」「汚れた」と表現し、その行為が自然の秩序に反する異常なものであることを強調しています。

この記述は単なる歴史的事実の報告ではなく、帝政ローマの腐敗と道徳的堕落を象徴する出来事として描かれています。タキトゥスは伝統的なローマの価値観から逸脱するネロの行動を、共和政時代の道徳的規範に照らして厳しく批判しています。

この記述は、古代ローマ社会における性と結婚に関する規範、そして権力者の過剰な振る舞いに対する知識人の批判的視点を理解する上で重要な史料となっています。

社会的・文化的背景

この文章が書かれた時代(1世紀後半から2世紀初頭)のローマ帝国は、ユリウス・クラウディウス朝からフラウィウス朝への移行期を経験していました。この時期は政治的混乱と道徳的価値観の変容が顕著でした。

当時のローマ社会では、以下のような社会的・文化的背景が存在していました:

  • 伝統的道徳観と現実の乖離: 共和政時代から受け継がれた厳格な道徳観がある一方で、特に権力者の間では放縦な生活が広がっていました。タキトゥスはこの乖離を批判的に描写しています。
  • 結婚制度と性規範: ローマでは結婚は社会的制度として重視され、特定の儀式と法的手続きが必要でした。同性間の結合は法的な結婚として認められておらず、ネロの行為は伝統的な結婚制度への冒涜と見なされました。
  • 皇帝崇拝と権力の乱用: 皇帝は半ば神格化された存在でしたが、その絶対的権力は時に過剰な行動へと導きました。ネロの例は皇帝権力の乱用を象徴しています。
  • 貴族階級の反応: 元老院を中心とする貴族階級はこうした皇帝の行動に対して不満を抱きながらも、表立った反対はできない政治状況にありました。タキトゥスは貴族階級の視点からこの状況を批判的に描写しています。
  • 歴史記述の政治性: タキトゥスの時代には、過去の暴君(特にネロ)を批判することで、間接的に良き統治の在り方を示すという歴史記述の伝統がありました。

この文章は単なる歴史的事実の記録ではなく、タキトゥスが生きた時代(トラヤヌス帝・ハドリアヌス帝の治世)の政治的・道徳的議論に影響を与えることを意図した政治的文学でもあります。過去の暴君の行為を描くことで、現在の統治者に対する間接的な教訓としての役割も果たしていました。