以下は、オウィディウス『恋の技法(Ars Amatoria)』第1巻89–96行を背景とした、軽やかで幻想的な短編物語です。詩の場面に登場する登場人物や神話的モチーフを物語に織り込みながら、ローマ劇場を舞台とした青春の幻影を描きます。

題名:
《彼女が劇場で見たもの》
第一幕:
開かれた扉
春の風がやわらかく吹き抜ける日、カミラは母の手を振り払うようにして、カンプス・マルティウスの劇場へ走っていった。今日は新しい悲劇が上演される日。けれど彼女の胸を高鳴らせているのは、演目ではなく——
Spectatum veniunt, veniunt spectentur ut ipsae.
(見るために来る女たち——そして、見られるために。)
小さな銀のブローチを髪にさして、カミラはゆっくりと客席へと入っていった。そこには、無数の視線が交錯していた。男も、女も、老いも、若きも。笑いと熱、香と色彩。
彼女は初めて「見られる」ということの、心地よい緊張に気づいた。
第二幕:
幻の少年たち
hic puer Hylas, sed fugientem captus in amnem;
hic erat aut Hesper, qui modo Lucifer erat.
舞台の脇、装置の影にたたずむ一人の少年に、彼女の目は釘付けになった。
琥珀の髪、夜の星のような瞳。舞台に上がる者ではなかったが、その佇まいは、かつて水の妖精にさらわれた少年ヒュラスか、あるいは空にまたたく明けの明星そのもののように思えた。
彼は微笑んだ。そしてすぐに、群衆の中へと消えていった。
第三幕:
逃げるもの、追うもの
respice Phaselden: fugiens Phaselisque per agros
haec fugit, illa sequens, haec prior, illa minor.
劇が進むにつれ、観客の笑い声と溜息が空気を震わせていく。
でもカミラは、それとは別の劇を見ていた。幻のような光景——
舞台の上ではなく、空想の野を、白いチュニックの少女が走っていく。後ろからは、別の少女が追ってくる。先にいるのは年上で、追ってくるのはまだ幼さを残す。
カミラは気づく。逃げているのは、ほんとうは彼女自身であることに。
そして追いかけていたのは、ほんとうは——自分の未来の姿だった。
終幕:
劇が終わるとき
劇が終わり、群衆は拍手と共に劇場を後にした。
カミラも立ち上がり、少しだけ大人びた歩き方で出口へと向かった。
空は淡いピンク色。明けの明星がまだ残っていた。
ふと振り返ると、劇場の影に、あの少年がいるような気がした。
彼女はそっとつぶやく。
「ille locus castum non habet ullus opus…
(あの場所には、もはや純粋であることなど必要とされない)」
でも、それが悪いことだとは思わなかった。
補足:
この物語は、オウィディウスの詩に見られる若さ、恋の予感、都市の劇場空間の官能と幻想性を映し出すものです。
- 幻想の少年はヒュラスとルキフェル(明けの明星)を重ねた存在。
- 逃げる少女と追う少女の対は、自己の中の「過去と未来」「幼さと目覚めた自我」の寓意。
- 劇場は単なる芝居の場ではなく、自分を演じ、発見する舞台なのです。