
【序章:フォルム・ロマヌムにて】
私はローマの詩人、マルクス・ウァレリウス・マルティアリス。今日も気まぐれな神々の都、ローマを散策しておる。見知らぬ旅人よ、そなたもこの喧騒と美の街に興味があると見える。よろしい、わしの詩と皮肉をお供に、ローマの名所を巡ってみようではないか。
【第一景:スブーラの雑踏とインスラ】
さあ、このスブーラの坂道を見てみよ。臭気と怒声、笑い声と歌声が混じり合う貧民街。高くそびえるインスラ(集合住宅)からは洗濯物が垂れ下がり、屋上では鶏と子どもが遊んでおる。
そこを歩くと、隣家の老婦人が「詩人マルティアリス様じゃないかい」と声をかけてくる。「この間の詩、うちの孫が声に出して笑ってたよ。あんた、よほどローマの腹の底を知ってるねえ」
わしが笑って頷くと、向かいのバルコニーから若い女が叫んだ。「でもお爺ちゃんの詩は、うちの猫にまで嫌われてるわよ!」──猫が鳴いたかどうかは、風の音に紛れて聞こえなかった。
“Vivere cum tota turba Suburae…”
──「スブーラの喧騒と共に生きる、それもまた詩人の宿命さ」(Ep. 12.18)
【第二景:カラカラ浴場の喧噪】
テルマエこそローマの社交場よ。裸の哲学者、饒舌な元老院議員、恋に落ちる若者…皆が水と蒸気の中で平等じゃ。
今日も湯に浸かっていると、隣から聞こえてきたのは「ところで君、詩人だろ?女主人が君の詩を枕元で読んでくれるんだ。……いや、寝付けないときにね!」という皮肉まじりの声。
突然、湯気の向こうから筋骨隆々の男が現れた。「お前がマルティアリスか。妻が君の詩に夢中でね。……まったく、昨夜はおれより詩のほうが長かったぞ!」と苦笑い。わしは肩をすくめた。「それもまたローマの愛のかたちだな」
“Thermae Maecenatis, ubi sudor pro sapientia habetur.”
──「汗をかけば哲学者、ここテルマエ・マエケナティスにて」(Ep. 3.44)
【第三景:フォルムの昼下がりと公衆トイレ】
市場では魚と哲学が等しく売られ、会話は軽業のよう。公衆トイレに入ってみれば、隣人の人生相談が始まる。
「ねえマルティアリスさん、うちの婿がなにを考えてるか分からんのよ」と、見知らぬ老女が突然話しかけてくる。わしが返すより先に、もう一人が割り込む。「そんなの簡単だ。婿の考えはいつも財布にある!」
その時、誰かが落とした巻物が便器の水に滑り落ちた。男が叫んだ。「ああっ、オウィディウスが水浸しだ!」。場は爆笑に包まれ、わしも思わず「せめてマルティアリスでなくてよかった」と呟いた。
“In latrina plus veritatis quam in Curia.”
──「真実は元老院より便所に宿る」(想像詩句)
【第四景:カンプス・マルティウスの昼寝】
午後には軍神の広場も眠気に包まれる。兵士も詩人も、犬と一緒に木陰で居眠りじゃ。
私は一冊の巻物を枕にしてうたた寝していた。すると、どこからか笛の音が聞こえてくる。目を開けると、若者たちが踊っていた。「人生の喜びは、酒と女と昼寝だよ!」と誰かが叫ぶ。なるほど、ここはまさにローマの楽園か。
目の前で、酔った男が自作の詩を朗読し始めた。「愛してる、パン屋の娘よ。君のパンより君の……」そこまでで、彼は犬に足を噛まれた。詩人の運命は、いつも笑いと痛みの狭間にあるのだ。
“Campus Martius habet omnia: otium, bellum, et puellas.”
──「カンプス・マルティウスには全てがある──休息も戦争も、そして美女も」(Ep. 4.45)
【第五景:ポエニの階段と女たちの視線】
夕暮れには、ポエニの階段を登るがよい。香水をまとった淑女たちが腕を組んで通り、眼差しで勝負を挑んでくる。
ある女がわしの脇に寄り添い、「あなたがマルティアリス?あの毒のある詩、私、大好きなの。まるで恋の罠みたい」と囁いてきた。ふむ、わしも老いたとはいえ、まだ女神ウェヌスに見捨てられてはおらぬか。
すると、近くで詩を朗読していた青年が、「彼女、毎週違う詩人にそう言ってるよ」と小声で漏らした。──まあよい、詩人もまた、言葉の幻に酔うものなのだから。
“Pulchra est quae nobis videtur, non quae omnibus.”
──「美しいとは、万人に非ず、我が眼に映る者なり」(Ep. 1.4)
【第六景:カピトリヌスの神殿と神々の無関心】
神殿は威厳に満ちておるが、神々は人間の悩みにあまり関心を持たぬようじゃ。
わしが真面目な顔で祈っていると、後ろの若者が「神様って、詩人の悩みに耳を傾けるのかな?特に、愛されぬ男の嘆きには」と呟いた。わしは振り返り、にやりと笑ってこう答えた。「耳は貸さぬが、題材にはしてくれるぞ」
その直後、祭壇に捧げられた果物にハエが群がり始めた。「ああ、神々も飽きてしまわれたようだ」と誰かがぼやいた。神の沈黙もまた、ローマの音楽の一部である。
“Templa frequentat, sed numquam deos audit.”
──「神殿に通っても、神の声は聞こえぬ者よ」(Ep. 2.19)
【第七景:ヴィア・アッピアで詩を売る】
見よ、わしの巻物を広げておるのは、アッピア街道の片隅の屋台じゃ。旅人に、風刺と微笑みを添えて一首いかがかな?
すると、通りかかったガリア人の兵士が笑いながら言った。「この詩、うちの百人隊長に読ませたい。奴、そっくりだ!」
さらに、別の若者が「この詩、母に読ませたら夕食を増やしてくれたよ!」と話す。詩とは、パンにもなり、毒にもなる。まさに、ローマという街そのもののように。
“Non legor, et cur non? Nimis es nitidus.”
──「読まれぬわが詩、それもそのはず、お主の指が綺麗すぎるのだ」(Ep. 1.117)
【第八景:夜のテヴェレ川と詩人の独酌】
やがて夜が来る。川沿いに腰かけ、杯に安ワインを注ぐ。ローマは騒がしい。されど、月明かりに照らされる石畳は、詩人の魂を静かに慰めてくれるのだ。
酔いがまわると、ふと今日の出来事が浮かんでくる。人々の笑い声、皮肉、愛、汗、祈り──すべてがこの都の詩なのだと、わしは再び確信する。
向かいの岸から誰かが竪琴を奏でている。その旋律は、わしの言葉では伝えきれぬローマの真実を奏でているようだった。
“Romae vivere non possum: dum scribo, Roma fugit.”
──「詩を書いているうちに、ローマは逃げていく。だからこそ、書かねばならぬのだ」(Ep. 12.36)
──さあ、旅人よ。そなたもこの都で、嘆きと笑いを抱えた詩を一つ、心に刻んで帰るがよい。