エピグラムと古代ローマ LⅩ

「Nullumst iam dictum quod non sit dictum prius.」の文法的解釈、日本語訳、作者、詩の解釈を詳細に説明します。


文法的解釈

Nullumst iam dictum quod non sit dictum prius.

語ごとの解説

  • Nullumst= Nullum est
    • 「Nullum」:形容詞「nullus, a, um」(何も~ない、無い)の中性単数主格
    • 「est」:動詞「sum(~である)」の現在・三人称単数 → 合わせて「何も~ない」「無いものはない」「~ということはない」
  • iam-「すでに」「もはや」などの副詞
  • dictum-「ことば、言ったこと」
    • 動詞「dicere(言う)」の完了分詞・中性・単数・主格/対格
    • ここでは「言われたこと」「言葉」「名言」など
  • quod
    • 関係代名詞「quod」(そのことは/それは)
    • 先行詞「dictum」にかかる中性単数主格(または対格)
  • non
    • 否定詞「~ない」
  • sit
    • 動詞「sum(~である)」の接続法・現在・三人称単数
    • ここでは「非現実・仮定・理由など」を示す
  • dictum
    • 再び「言ったこと」(上記と同じ、完了分詞)
  • prius
    • 副詞:「以前に」「先に」「これより前に」

全体の構造

直訳すれば

「すでに〔以前に〕言われなかったような言葉というものは、いまや何もない」

構文は以下の通り:

  • Nullum iam dictum est =「今や言われてない(新しい)言葉などない」
  • quod non sit dictum prius =「(それは)以前に言われなかったような」

和訳

直訳:

「今や、以前に言われなかった言葉など何もない」

意訳:

「新しいことば(新しいアイディア)は、何一つとしてもう存在しない。」 「この世には、すでに昔に言われていなかったことなどひとつもない。」 「今さら新しい言葉などなにもない。」


作者と出典

この句は**テレンティウス(Terentius, テレンス)**のもので、

喜劇『エウヌクス(Eunuchus=宦官)』第8行に登場します。

Publius Terentius Afer(テレンティウス、前195?~前159)

  • ローマのラテン喜劇作家。
  • ギリシア喜劇を手本に人間や社会の本質をユーモアのうちに描写しました。

詩とその解釈

この句は、「人類社会においては、あらゆる知恵・言葉・アイデアはすでに語り尽くされており、“まったく新しいもの”は存在しない」という人間の普遍的な経験や文化の積み重ねへの洞察を示しています。

背景と解釈

  • テレンティウスはこの言葉を、当時「物語や台詞の“新規性”」を批判される劇作家(自分自身も含む)への弁明として用いました。
  • つまり「誰もが“新しいこと”を言おうとするが、実は人間の本質や経験は繰り返され、根本的に新しいものは生まれていない」という、創作や表現の限界と普遍性に対する自嘲と共感です。
  • 近代以降も多くの作家・思想家たちが「新しさとは本当に可能なのか」「古いものの再発見こそ創造だ」と論じていますが、その原点を見る思いがします。
  • 哲学的にも、「原型的なイメージ=アーキタイプは有限である」という文化批評の系譜につながります。

現代的な意味

この句は今なお、「人間は新しさを追い求めるが、すべては過去の繰り返し」という謙虚で普遍的な警句として引用されています。

クリエイティブな活動だけでなく、日々の所感にも通じる知恵の一言です。


まとめ

  • 文法的解釈 すでに昔に言われなかったような言葉(=新しい言葉)は、今や何もない。
  • 作者 テレンティウス(ローマ喜劇作家)、『エウヌクス』より
  • 解釈 人間社会の普遍性、新しさや独創の限界、創作の苦しみを自嘲しつつも温かく見つめた名言

ご質問などあればどうぞ!

この「Nullumst iam dictum quod non sit dictum prius(今や、以前に言われていなかった言葉などない)」というテレンティウスの句が生まれた文化的背景を論じます。


1. 古代ローマ文学の伝統と創作事情

紀元前2世紀のローマでは、文学や演劇がギリシア文化の強い影響を受けて発展していました。特にテレンティウスの喜劇は、ギリシア新喜劇(メナンドロスなど)の翻案が中心です。この時代、オリジナリティ(独創性)の概念が現代ほど厳密ではなかった一方で、**作品の「新しさ」や「独自性」**について意識的だった作家や観客も多く、しばしば「またギリシアものの焼き直しか」「どこかで聞いた話だ」と揶揄されることもありました。


2. テレンティウスの立場――翻案・リメイクに対する弁明

テレンティウス自身もしばしば、「ギリシア喜劇の単なる模倣」「他人の作を継ぎはぎした作り物」だと批判されていました。この句は、そうした批判にユーモアを交えて応答するものです。

**「まったく新しいものを作ろうにも、どの時代も昔語られたことの繰り返しにすぎない。だから模倣や引用を過度に責めることはできない」、**という創作者の苦悩と達観が表現されています。


3. 人間の経験・社会の普遍性

この句には、「普遍的人間像」への古代的な洞察も込められています。すなわち、どんなに時代や場所が違っても、人間の恋愛・家族・金銭・友情・裏切りといった本質的な営みや感情のパターンは驚くほど変わらない。だからこそ「今までに語られなかったこと」はほとんどない、という懐疑と謙虚さ、そして逆説的な安心感がここにあります。

ギリシア・ローマの喜劇や文芸はしばしば既知の話型・モチーフ(トポス)を繰り返し用い、それを洗練や技巧で新たに味付けする文化でした。


4. 文学と「新しさ」の理念

現代でもクリエイターや作家たちは「新しいこと」を求められ、その苦しさや不可能性を訴えることがあります。その意味でこの句は、古代から今日まで連綿と続く「創作とは何か」「伝統と独自性の関係」という大きな文学的・文化的テーマの原型に当たります。

また、ラテン語の格言として中世・近世以降(特にルネサンス期の人文学者たち)にも盛んに引用され、知識や創作、イノベーションという概念をめぐる思索のひとつの出発点になりました。


5. 普遍性の肯定、「知の連続性」への意識

この句は「新しさの不可能性」を嘆いているようでいて、逆に「どんな表現もすでに歴史や人々の中で共有されている」という知のつながり=文化の連続性を静かに肯定するものです。

つまり、「私たちは新しい一発を狙う者ではなく、先人の知恵と営みに連なり、その中で自分なりの色を添える存在である」という知的態度が読み取れ、これは西洋人文主義の基盤でもあります。


まとめ

「Nullumst iam dictum quod non sit dictum prius.」は、 古代ローマにおける翻案・模倣文化と創作論、 人間社会・感情の普遍性、 文学の伝統と革新のせめぎあい、 そして大小のクリエイターたちの悩みや達観を象徴する一句 です。 今もなお、知と表現の営み全体の「人間的本質」に触れる、普遍的な文化的警句となっています。