ラテン語原文
Quamvis non rectum, quod iuvat, rectum putes.
日本語訳
「たとえ、喜びをもたらすものが正しくなくても、あなたはそれを正しいと思うだろう。」
文法的解釈
- Quamvis
- 欠乏形容詞 quamvis は「たとえ…でも(although)」を導く譲歩の接続詞。従属節に接続法を伴うことが多い。
- quod iuvat
- quod:中性単数主格の関係代名詞「…するもの/…なこと」。
- iuvat:動詞 iuvo, iuvare (「喜ばせる/助ける」)の三人称単数現在能動形。「喜ばせるもの」と訳出。
- non rectum
- rectum:形容詞 rectus, a, um の中性単数主格。「正しいこと」の意味で quod の補語。
- non が否定し、「正しくない」。
- rectum putes
- putes:動詞 puto, putare (「思う/考える」)の二人称単数現在接続法。「…と思うだろう」の意を含む譲歩構文に用いられる。
- rectum:先の quod が指す内容を再び受ける補語として中性単数主格。
- 構造のまとめ
Quamvis [quod iuvat non rectum], rectum putes.
// たとえ【喜びをもたらすものが正しくない】としても、【それを正しい】と思うだろう。
解説
- 道徳と快楽の乖離 快楽や利益(quod iuvat)を得られるからといって、それが倫理的に「正しい(rectum)」とは限らない、にもかかわらず人は「得になるなら正しい」と判断してしまう──という、逆説的かつ皮肉的な洞察を示しています。
- 譲歩構文の効果 Quamvis 以下に接続法 putes を用いることで、「たとえ…と思い込んでいても」という「思い込みの誤り」を強調し、聞き手に自己省察を促します。
- 現代的示唆 利益や快適さだけを基準に善悪を判断する風潮への警鐘とも言え、マーケティング主導の消費行動や「いいね」を基準にした価値判断が蔓延する現代社会においても有効な警句です。
作者:パブリリウス・シルス(Publilius Syrus, 活躍:紀元前85–43年頃)
シリア・アンティオキア出身の元奴隷で、ローマで自由身分を得た後、即興詩人・ミメー(寸劇)俳優として活躍しました。ユリウス・カエサル主催の詩の競技会で優勝した逸話も残り、約700篇におよぶ一行詩(Sententiae)を通じて、機知に富んだ警句をラテン語で後世に残しました 。
Epigram の趣旨と解説
「たとえ正しくなくとも、得になるなら正しいと思うだろう。」
(Quamvis non rectum, quod iuvat, rectum putes.)
道徳と功利の対立 ローマ人は「utilitas(役立ち・実利)」を重視する一方で、共和政期には「mos maiorum(先祖の伝統的道徳)」を守ることも理想とされました。この警句は、「利益があれば道義を忘れがち」という人間の普遍的な弱点を鋭く突いています。
機知と皮肉 「Quamvis…putes」の譲歩構文で、「たとえ…と思い込んでいても」という語調を採用。聞き手自身の判断の誤りを想起させ、自己省察を促す仕掛けが巧みです。 社会的背景 紀元前1世紀のローマは、領土拡大や富の集中とともに、政争や汚職も激化しており、「便益があれば手段を選ばない」という実利主義的風潮が強まっていました。こうした時代精神を反映する警句としても受け取れます。
後世への影響 このフレーズは英語に「It may not be right, but if it pays, think it so」として紹介され、近代以降の功利主義批判やビジネス倫理論でもしばしば引用されます。
このように、シルスは簡潔な韻文の中に「功利性と道徳の緊張」「自己欺瞞への警告」「時代批評」という多層的メッセージを込め、ローマ人の日常と精神風土を象徴的に描き出しています。
古代ローマと賄賂
紀元前1世紀のローマ共和国では、選挙や公職就任、地方統治のあらゆる場面で賄賂(ラテン語 ambitus および largitio 、“贈賄”)が横行していました。以下、主な実態とそれを取り締まる法・判例を3点にまとめます。
1. 選挙での賄賂(ambitus)
手口:候補者は有権者に現金や食事会(「贈宴」)、舞台興行への無料招待、衣類・銀器などの贈物を行い、票の確保を図りました。 法規制: lex Baebia de ambitu(紀元前181年):賄賂で有罪になると10年間立候補資格を剥奪。 lex Acilia Calpurnia(67 BCE):追放・財産没収・元老院除名の厳罰化。 lex Tullia(63 BCE):罰則に10年の追放を追加。 lex Pompeia de ambitu(52 BCE):ポンペイウス提案。訴追手続きを迅速化し、被告が他の贈賄者を告発すれば免責される条項を含むなど、政治的武器化された。
2. 属州行政における搾取と贈賄(repetundae)
実態:元老院派から選ばれた属州総督は、ローマ本国での無給奉仕を「前借」するように、現地で過徴税・高額賄賂を徴収し、膨大な私的利益を得ることが常態化していました。 法規制: lex Calpurnia de repetundis(149 BCE):初の常設裁判所(quaestio perpetua)を設置し、属州総督の横領・収奪を訴追可能に。 以後、lex Junia(126 BCE)、lex Acilia repetundarum(123 BCE)、lex Servilia Glaucia(100 BCE)、**lex Iulia de repetundis(59 BCE)**などが次々と制定され、罰金・陪審員構成の変更・追放規定などを強化しました。
3. 裁判所・陪審員への贈賄
手口:裁判の陪審員(初期は騎士階級、後に元老院議員も含む)に金品を渡し、有利な評決を引き出す。 事例: マルクス・アエミリウス・レピドゥス・ポルキナが属州裁判で陪審員を買収したとの伝承や、スキピオ・アエミリアヌス対ルキウス・アウレリウス・コッタ裁判で陪審員買収疑惑が語られています(Appian 記述)。 キケロ『プロ・ムレナ』『プロ・クルエンティオ』にも、弁護側が陪審員に接待や贈与を行ったとする非難が見られ、裁判が純粋な法的場というより政治的駆け引きの舞台であったことを示します。
これらの事例からわかるように、共和政末期のローマは「賄賂と法の対峙」が政治・行政の根幹をなしており、立法と訴追の強化にもかかわらず、取締り以上に腐敗が先行した時代でした。