エピグラムと古代ローマ ⅩLⅠ

Amore cecidi tamquam blatta in peluim.

    文法的解釈

    • Amore:名詞 amor, -ōris の奪格(原因・手段)「恋によって/恋のせいで」
    • cecidi:動詞 cado, cadere, cecidi, casum の1人称単数完了能動直説法「私は倒れた/落ちた」
    • tamquam:接続詞「まるで…のように」(比較の導入)
    • blatta:名詞 blatta, -ae 主格単数「ゴキブリが」
    • in peluim:前置詞句 in+対格「泥の中に/泥の上に」(動きのある方向を示す)

    訳例

    「私は恋のせいで倒れた、まるでゴキブリが泥の中に落ちるかのように。」

    作者と作品出典

    この二行詩

    Amore cecidi tamquam blatta in peluim

    は、共和政末期の詩人・舞台作家デキムス・ラベリウス(Decimus Laberius, 紀元前105頃–43頃)が残したミーム(mimus)の断片の一つで、アウルス・ゲッリウス『アッティカ夜話』第16巻7章などに引用されています。

    1. 文学的解説

    • 比喩の強烈さ
      • tamquam blatta in peluim 「まるでゴキブリが泥の中に落ちたかのように」――日常的に忌避される昆虫と、不潔な泥の組み合わせが、恋に落ちた者の体裁あるいは自尊心の“崩壊”を痛烈に表現しています。
    • 動詞 _ cecidi_ のニュアンス
      • 「倒れた」「落ちた」という完了形は、意志を失い制御不能になる瞬間的反応を示し、“愛の強烈な衝撃”を暗示します。
    • 原因格 Amore
      • 「恋のせいで」の奪格は、感情に駆られて制御を失う主体を強調。動機も結果も“外的”=“愛”に帰する構図です。

    2. 文化的・歴史的背景

    1. ミーム(mimus)というジャンル
      • ミームはマスクを使わず、日常語に近い口語で演じられた大衆的な寸劇。共和政末のローマ市民層に親しまれ、しばしば猥雑・下品なユーモアや社会風刺を伴いました。ラベリウスはこのジャンルをラテン文学に確立した先駆者の一人です。
    2. 「blatta」の語義と含意
      • ラテン語 blatta はもともとギリシャ語由来で「虫」「蛾」「ゴキブリ」などを指し、夜間に灯火に寄る不快な虫のイメージを伴います。泥(土壌)ではさらに不潔感が増し、読む者に強い「ぞっとする」違和感をもたらします。
    3. 恋愛観と身体表現
      • ローマ詩ではしばしば「amorに撃たれる」「amorに縛られる」など戦争的・暴力的イメージで恋心を描写します。本断片も同様、理性を失う肉体的ショックとしての恋愛体験をコミカルかつ生々しく表現しています。

    翻訳例

    「私は恋のために倒れた――まるでゴキブリが泥の中に落ちるかのように。」

    恋の衝撃で身も心も制御不能になり、倒れ伏すさまを、読者に鮮烈に印象づける一句です。


    古代ローマ時代のゴキブリ

    以下では、共和政末期~ローマ帝政期におけるゴキブリ(特にオリエンタルゴキブリ Blatta orientalis L.)の生態と、その文化的・考古学的背景をご紹介します。

    1. 分布と起源

    • 原産地:黒色で大型のオリエンタルゴキブリ Blatta orientalis は、カスピ海周辺(トルキスタン~コーカサス地域)が原産と考えられています。
    • ローマ世界への伝播:考古学調査では、ローマ支配下のロンドニウム(現ロンドン)初期入植層から本種の卵鞘(oothecae)が出土しており、紀元1世紀頃にはすでにローマ帝国北西端にも侵入していたことがわかっています。

    2. 生息環境と行動習性

    • 好適環境:高温多湿を好み、家屋の壁隙間や床下、パン窯の近く、穀物倉庫、ワインの貯蔵庫など、壁暖房や残留熱がある場所に多く見られます。
    • 夜行性:日中は暗所に潜み、夜になると活動を始めるため、人間の目に触れることは少ないです。
    • 移動様式:翅はあるものの飛翔能力は乏しく、驚くと短距離を滑空する程度。ほとんどを歩行で移動します。

    3. 繁殖サイクル

    • 卵鞘(oothecae):メスは1回の産卵で20~40卵を含む卵鞘を数個産み落とします。
    • 発育期間:最適温度(約25–30 °C)下では卵から成虫まで約6–12週間で発育します。寒冷条件下では成育が遅延します。
    • 寿命:成虫はおおむね1年程度生きるとされ、産卵能力は1シーズン続きます。

    4. 食性と生態的役割

    • 雑食性:澱粉質の穀物から腐敗した有機物、さらには紙・布・木材の微小片まで幅広く摂取。保存食料の害虫として嫌われました。
    • 腐食促進:腐敗物を分解する微生物活動を助長する一方で、病原菌を媒介するリスクもあります。

    5. ローマ社会との関わり

    • 同居性(シナントロープ):人間の住居や食料保管場所に定着し、貯蔵食料の損失を引き起こしたことが文献・考古学からうかがえます。
    • 交易ルートとの関連:交易品や軍隊の移動に伴って、本種は帝国内を広く拡散。パン窯や穀倉の残滓を好んだため、食糧供給地で特に繁殖が盛んでした。

    当時のローマ人にとって、ゴキブリは「不潔で忌避すべき害虫」でありつつ、家屋の構造や暖房・貯蔵法を考えるうえで無視できない共生者でした。