“Ite, pii manes et lamentabile munus accipite nec nomina tristia dicti umentesque oculos et pallida vultibus ossa ostentate seni: pudet, heu piget usque fateri.”
文法的解釈:
- “Ite” – eoの命令形複数
- “pii manes” – 呼格(「敬虔な死者の霊たちよ」)
- “lamentabile munus” – accipiteの目的語(「嘆かわしい任務を」)
- “tristia nomina” – 目的語(「悲しい名前を」)
- “dicti” – 受動完了分詞属格(「語られたものの」)
- “umentesque oculos” – ostentateの目的語(「涙に濡れた目を」)
- “pallida ossa” – 同じくostentateの目的語(「蒼白な骨を」)
- “vultibus” – 奪格(「顔に」)
- “seni” – 与格(「老人に」)
日本語訳:
「行け、敬虔なる死者の霊たちよ、そしてこの嘆かわしい任務を
受け取れ。そして語られた悲しい名前を
そして涙に濡れた目と、顔の蒼白な骨を
老人に示せ。ああ、告白し続けることが恥ずかしく、悔やまれる。」
この詩は、ラテン詩人スタティウス(Publius Papinius Statius、紀元45年頃-96年頃)の『シルウァエ』(Silvae)からの一節と考えられます。
この詩の中で、語り手は死者の霊たちに向かって語りかけています。霊たちに対して、ある「嘆かわしい任務」を果たすよう命じています。その任務とは、老人(恐らく生き残った人物)に対して、亡くなった者たちの存在を示すことです。
詩の中の要素:
- 「涙に濡れた目」と「蒼白な骨」という強い視覚的イメージは、死と喪失の痛みを表現
- 「敬虔なる死者の霊たち」(pii manes)は、ローマの死者崇拝の文化を反映
- 最後の一文「告白し続けることが恥ずかしく、悔やまれる」は、語り手の深い後悔や罪悪感を示唆
全体として、この詩は喪失、悲しみ、そして生者と死者の間の複雑な関係性を描いた哀歌的な作品です。死者を追悼しながらも、生き残った者の罪悪感や後悔という感情も織り込まれています。
古代ローマにおいて、死者を追悼する詩(エピセディウム)は重要な文学ジャンルでした。特に帝政期には、個人的な喪失や悲しみを詠う詩が広く普及していました。
「マネス」(manes)という概念は、ローマ人の死生観において中心的な位置を占めていました。これは死者の魂や精霊を指し、定期的な祭祀や供養の対象とされました。死者は「敬虔な」(pius)という形容詞で形容されることが多く、これは彼らが生前に宗教的・社会的義務を果たした徳のある存在として尊重されていたことを示しています。
スタティウスの時代(1世紀後半)は、詩作における修辞的技巧が特に重視された時期でした。個人的な感情を劇的に表現しながら、同時に伝統的な文学的規範や宗教的価値観を反映させることが求められました。
この詩に見られる「目」や「骨」といった身体的イメージの使用は、当時の追悼詩の典型的な特徴です。これらは単なる視覚的効果以上の意味を持ち、死者の現存性と不在性を同時に表現する手段として機能しています。
古代ローマの葬送儀礼は、宗教的・社会的に重要な意味を持つ複雑な過程でした。一般的な葬儀の流れは以下のようなものでした:
- 臨終の儀式: 死にゆく人の最後の言葉(ultima verba)が重視され、近親者が最期の息を受け取ろうとする習慣(extremum spiritum ore excipere)がありました。
- 遺体の準備: 遺体は洗浄され、香油を塗られ、最上の衣服で装われました。また、口には銅貨が置かれ、これは冥界の渡し守カローンへの支払いとされました。
- 通夜(conclamatio): 遺体は家の中庭(atrium)に安置され、家族や近親者が故人を呼び続けることで、本当に死んでいることを確認しました。
- 葬列(pompa funebris): 特に有力者の場合、遺体はフォルムを通って運ばれ、この際、先祖の肖像(imagines maiorum)を持った役者たちが行列に加わりました。
- 埋葬方式: 共和政期までは土葬が一般的でしたが、帝政期には火葬が主流となりました。ただし、幼児や特定の家族は伝統的に土葬を維持しました。
火葬の場合、遺灰は骨壺(urna)に収められ、家族の墓所や地下墓所(コルンバリウム)に保管されました。また、定期的に行われる追悼の儀式(parentalia)では、供物や献酒が行われ、家族の絆が再確認されました。
これらの儀式は、単なる遺体の処理以上の意味を持っていました。それは社会的地位の表明であり、家族の連続性を示し、また魂の適切な送り出しを確実にする重要な宗教的行為でもありました。
一方、奴隷の葬儀は、その社会的地位を反映して、はるかに簡素なものでした:
- 基本的な扱い: 多くの場合、奴隷は最も安価な方法で処理され、共同墓地(puticuli)に埋められました。
- 埋葬場所: 都市の外れにある貧民用の共同墓地が一般的で、個別の墓標を持つことは稀でした。
- 例外的なケース: 裕福な家庭の家内奴隷(familia urbana)の中には、主人の家族の墓所に埋葬を許される者もいました。これは特に長年忠実に仕えた奴隷に対する待遇でした。
- 奴隷の組合(collegia): 一部の奴隷は互助組合に加入し、その組合が葬儀の費用を負担することで、より丁重な埋葬を受けることができました。
これらの扱いの差異は、ローマ社会における身分制度の厳格さを如実に示すものでした。ただし、人道的な主人の中には、忠実な奴隷に対して相応の葬儀を執り行う者もいました。
葬儀関連の職業は、古代ローマ社会において重要な役割を果たしていました:
- リビティナリイ(libitinarii): 葬儀請負人として、葬儀全般の手配を担当。リビティナ女神の神殿を拠点に活動し、必要な物品や人員を手配しました。
- ポリンクトレス(pollinctores): 遺体の防腐処理や化粧を専門とする職人。遺体を清め、香油を塗り、化粧を施して葬儀に備えました。
- ディッシグナトレス(dissignatores): 葬列の指揮官として、順序や形式を管理。特に有力者の葬儀では重要な役割を果たしました。
- プラエフィカエ(praeficae): 専門の泣き女として雇われ、葬儀で故人を哀悼する歌を歌い、悲しみを表現しました。
- ウストレス(ustores): 火葬の専門家として、遺体の焼却を担当。火葬場の管理も行いました。
これらの職業人たちは、通常リビティナ神殿に登録され、その管理下で営業を行っていました。彼らの存在は、ローマの葬送儀礼が高度に組織化された専門的なサービスとして確立していたことを示しています。
著名な葬儀の歴史的事例
古代ローマでは、特に著名な人物の葬儀が重要な公的イベントとなりました:
- ユリウス・カエサルの葬儀(前44年): フォルムで行われた公葬で、マルクス・アントニウスの追悼演説が民衆の感情を大きく揺さぶり、暴動にまで発展しました。民衆は即興の火葬台を作り、カエサルの遺体を焼きました。
- アウグストゥスの葬儀(14年): 入念に計画された国葬で、遺体はマルス原で火葬され、遺灰はマウソレウムに納められました。これは帝政期の皇帝葬儀の模範となりました。
- ゲルマニクスの葬儀(19年): ティベリウス帝の養子であり皇位継承者だったゲルマニクスの死は大きな衝撃を与え、その葬儀は帝国全土で追悼行事が行われる大規模なものとなりました。
これらの公的な葬儀は、単なる追悼行事以上の政治的意味を持ち、しばしば新しい政治体制への移行期を象徴する重要な儀式となりました。
葬儀習俗への影響者
古代ローマの葬儀習俗の発展に重要な影響を与えた人物たちがいました:
- ヌマ・ポンピリウス: ローマ第2代王として、多くの宗教的儀式を制定し、その中には葬儀に関する基本的な規定も含まれていました。特に、死者を浄化する儀式の確立に貢献しました。
- アッピウス・クラウディウス・カエクス: 共和政期の政治家として、葬儀における贅沢を制限する法律の制定に関与し、葬送儀礼の標準化に影響を与えました。
- キケロ: 葬儀における弔辞(laudatio funebris)の形式を洗練させ、その後の葬儀演説の模範を示しました。また、著作の中で理想的な葬送儀礼についても論じています。
これらの人物たちの影響により、ローマの葬送儀礼は単なる慣習から、体系的で意味のある社会的・宗教的実践へと発展していきました。