良い写真を撮るためには演歌ではなくモーツァルトでないとダメだというお話しを聞きました。奥の深い話です。
そこで思い出したのは、20世紀最大の神学者K.バルトのモーツァルト論です。モーツァルト生誕200年を記念して1956年にチューリッヒのツオリコン社からKarl Barth:Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1956を公にしています。モーツァルトがカトリック教会で育ち、その感化のもとにあったのですが、すなわち、バルトの神学とは方向の違う宗教性を身につけていたのですが、バルトはその音楽をこよなく愛する人であったのでした。それで、出版社から請われてモーツァルトのこと、そして、その音楽への愛を綴ったのでした。
邦訳が小塩節さんによってなされ、新教出版社から「バルト著 モーツァルト」(1957年)として出版されています。
バルトはこう記しています。「その音楽は、ことすべて明らかなるかのいと高きところより来たる。人の世の両面、そしてまた歓喜と苦悩、善悪、生死が共にありのままに、しかしその制限をうけたままの姿で、この高みからは洞察されている。」
また、「モーツァルトの大きく自由な、物に即した即物性(ザッハリヒカイト)とでも呼びたい(態度)」について語っています。ザッハリヒカイトという言葉が印象深いのですが、「生活上の大小の経験(=物)とはまったく無縁に(→しかし、即して)、繰り返し、かわることなく彼の生きている音のコスモスの一片をして、形あらしめようと(ザッハリヒカイト)」しているというのです。そして、そこから生まれるものは、「昔も今も変わりなく、自分一人の主観という蝸牛の殻から、さあ何とかして、少しでもいいから出てこい、といつもそういう聴衆への招きの声であって、今日までその招きに変わりはないのである。」