ハイム・ラビン「ヘブライ語小史」4章の紹介つづき

ラビンは古典ヘブライ語の成立とその後の推移を4章と続く5章で論じています。今回は成立後の推移について論じている部分を4章その2、また、その3として紹介します。

4章その2の2

王国のヘブライ語がどの程度他の言語からの借用に自由であったか、ということは計りにくい課題である。
しかし、以下のことは確認できる。
1、ヘブライ語中のほとんどの外国語の借用語は、ヘブライ人とカナン人の間の接触の頃のものである。それらはダビデの時代の頃には、すでにヘブライ語としてうけいれられていた。
2、預言者たち、特にイザヤは、預言者たちが預言しようとした国の言語に由来する外国語を用いる傾向があった。ただし、それが当時一般の使用に浸透して行ったかどうかは不確かである。
3、捕囚前のヘブライ語にアラム語からの借用語が含まれていたかどうかが、大きな論点となる。

このように語って古典ヘブライ語が持つ個性と特徴はのちの時代にも引き継がれたとみています。そしてさらに続きます。

前記最後の点、つまり3については今日の学問は、王国時代に由来するテキストに現れる単語について、アラム語の起源を仮定することにはおおむね否定的である。
しかし、外国との交易 によってもたらされた術語は自由にもちいられたであろう。ここでラビンは具体的にいくつかの語を拾い上げている。またギリシャ語からの借用語とおもわれるものもある。ギリシャの船員たち往来によるのであろう。

さて、統一王国分裂(前926年)によって再び部族間に政治的境界ができ、南北分裂王国時代をむかえ、宗教、文化、政治的結合などについては別の歩みをすることになったが、言語の点では分裂することはなかった。このことに関連して注目すべきはを預言者アモスとホセアである。
アモスはユダの出身であるが、北王国で預言し、その言葉は北王国の人々にあいつうじたのである。また、ホセアは北王国の出身であ、サマリアで用いられていた俗語を取り入れるほどであったが、接続詞のshe-(sha-)は決して用いず、asherのみである。つまり北王国は少なくとも文学的目的のためには、それがある程度の地方色を帯びていた可能性があったとしても、ダビデーソロモン時代の古典ヘブライ語を続けて使用したということである。

第4章その3

古典ヘブライ語は前586年にエルサレムが滅亡するまでの400年間用いられた。この長いあいだに話し言葉がエルサレムの都においてさえ全く変化しなかった、ということはあり得ないことである。しかし、書き言葉は、文法と語彙の重要なものはほとんどそのままで、文体だけが変化した。これは古典ヘブライ語が教育によって習得された文章語であり、主に社会的エリートが有用に用いたということを意味している。当時は、書簡や書物は実際にはその著者によって書かれたのではなく、文字と共に書き言葉を習得していた専門の書記生によって書かれたのである。これら書記生は、できうる限り厳格に言葉の基準を維持することに意を尽くした。なぜならば、話し言葉と書き言葉の距離が大きくなればなるほど、かれらの立場がより有利になるからである。

 

「ヘブライ語小史」紹介第4章その1のつづき

偉大な叙事詩において古典ヘブライ語へといたる端緒が拓かれましたが、その後の推移をラビンはどう見ているのでしょうか。それがここでのテーマです。

その1のつづき

先に記した『偉大な叙事詩』とその詩的言語は、ペリシテ人の脅威に直面したイスラエル諸部族(北諸部族)の統一に役立ち、サウル王の時代を経てダビデ・ソロモンの時代には全イスラエルの共通の言語になっていった。『古典ヘブライ語』の成立である。

つまり以下のような経緯が観察されるとラビンは言います。

南のユダ族出身のダビデは北諸部族に対する力を手中におさめ、南北統一を果たし、エルサレム征服して首都としました。ダビデは全イスラエル部族から選び出した兵士をエルサレムに住まわせ、全ての部族の成員が協力して任務を果たす軍隊を組織しました。ソロモンはエルサレムに神殿を建て、全国から祭司とレビ人を連れてきて神殿に仕えさせたのでした。神殿は巡礼祭および残りの年に行われる個人的な犠牲のためにやって来る全ての地域の人々を魅惑したことでしょう。神殿と宮廷の周辺には、書記、知恵の教師、そして預言者といった知識階級が現れました。。彼らは異なる部族の出身者から構成されていただけでなく、その教えがあらゆる部族に届き、そして全ての者に等しく良く理解されるような仕方で聞かれるようにと配慮したにちがいないのです。以上のようなことに加えて、言語の発展の観点から見て、最も重要なことはソロモンが全土にくまなく文官を置いたことです。そのことによって、あらゆる人々が彼らと接するようになりました。また、強制労働の義務であらゆる地方の人夫たちが彼らの居住地以外で、国の他の地方出身の男たちと一緒に働きました。

つまり、高度に中央集権化された政体は統一された言語を必要としたのです。ラビンは申します。「行政には王国の全ての地域において障害なく理解され、また役人の誰もが速やかに学ぶことができる書き言葉と話し言葉が必要であった。さらに一方では、複雑な行政、強制労働、神殿祭儀そして列王記上10章に述べられている、急速に伸びていく外国との通商などに関連のある多数の新しい概念を、効果的に表現するための申し分なく豊かで、そして採用し得るそれらの言葉がなければならなかった。」。そして、さらに、「この言葉は最初異なる部族出身の人々の接触により、首都特に宮廷において生み出されたものとおもわれる。そしてさらに、首都ならびに宮廷の言語としての威信によって、エルサレムから送り出される役人たちに運ばれて広がっていったと考えられる。」と述べて、ひとたびこの新しい共通の言語が、公式の記録の中で使われ始めると、当然のこととして宮廷の年代記の著者たちにも使われるようになり、したがって一部はこのような年代記からの抜粋に基づいている列王記も、彼らの言語を反映していることは疑い得ない。
この言語の形態がダビデとソロモンのもとでの民族の統一に帰せられる(前998ー926年)第一神殿時代の古典ヘブライ語である。そうラビンは考えています。

つづく。

ラビンはこの言語の際立った特徴を二つあげていますが、しばらくお待ちください。

アラム語

イエス・キリストはアラム語を話していたと言われます。十字架上の言葉「わが神、わが神、なにゆえ私をお見捨てになったのですか」ですが、マタイ福音書の「エリ、エリ・・・」はヘブライ語で、マルコの「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」はアラム語だと言われています。

いったいアラム語って何?と聞かれて、どのように答えて良いのかいつも戸惑うのですが、ハイム・ラビンが「ヘブライ語小史」の第3章『ヘブライ語の背景』の中で言及していますので、それを紹介します。

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続きです・・「ヘブライ語小史」3章の紹介

ハイム・ラビン「ヘブライ語小史」の3章『ヘブライ語の背景』では、聖書のヘブライ語が一つの言語として形成されるに至った、その背景について論じています。ヘブル語の成り立ちですね。多くのページが割かれています。

「ヘブライ語の属している語族が非常に多く、また広範囲にわたるということが明らかになってきた。それはハム・セム語族とか、アフリカ・アジア語族、あるいはエルトゥラー語族など、ざまざまな仕方で呼ばれる。」

エリュトゥラー語族というのは聞き慣れない表現ですが、紅海に由来する言葉で、ちょうど紅海で区切られる広大な二つの地域・語族全般を言い表す表現のようです。

 

こう書き始めて、ヘブライ語と同じ祖語を持っていたり、影響を与え合ってきたであろう関連する語族は広範囲であると語り、

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毛利稔勝訳/ハイム・ラビン「ヘブライ語小史」

東京神学大学で同時代に学んだ毛利稔勝さん(牧師のブログをごらんください)の残した翻訳論文を、貴重な論文であるにもかかわらず、どなたも紹介なさらないので、少しずつでも紹介しようと思い立ちました。


ヘブライ語を話した最初の子ども:イタマル・ベン・アヴィ

リトアニアにエリエゼル・ベン・イェフダという若いユダヤ人がいました。彼は他のユダヤ人の誰も思い浮かべることのなかったヘブライ語を日常語とするユダヤ人国家という考えを抱くようになっていました。彼はこの革命的な考えをウィーンの季刊誌「ハシャハル」に連載しました。1879年のこと、「緊急の問題」というヘブライ語の論文です。

1881年(明治14年)、彼はパレスチナに到着します。そして、彼の考えを実現すべく、二つの斬新な原則を宣言しました。1,人々は家庭にあっては家族とヘブライ語で話すべきこと。2,ヘブライ語を教育の唯一の手段とすべきこと、です。彼自身、この二つの原則を実行しました。長男が生まれたとき、ヘブライ語が子どもの最初の言語となるように、あらゆることに気を配りました。そして、彼の長男イタマル・ベン・アヴィは最初のヘブライ語を話す子どもになったのでした。

さて、彼がなぜ革命的かというと・・・ 続きを読む

目には目を、歯には歯を

死刑廃止論議をめぐるシンポジウムのようなことが行われたのでしょうか。ニュースに取り上げられていました。難しい問題ですね。それを支えるために整えなければならない多くのことがあるように思いますが、死刑廃止実現への努力をすることが大切ではないかと私は考えています。

それはさておき、そのニュースの中で「目には目を、歯には歯を」という言葉を耳にしました。死刑制度の根底にある精神を表現する言葉となっているのでしょうか。復讐を是認し、それを満足させるための言葉として、一般には受け取られているようです。

しかし、そうではありませんね。元々は、際限の無い、雪だるまのように膨れてゆく復讐と怒りの連鎖を止めるための法として、定められたものですね。ハムラビ法典しかり、旧約聖書しかりです。「目には目で、歯には歯で」というのが正しい翻訳のようです。イエスさまはこれを受けて「右の頬を打たれたら、左の頬を出しなさい」と言われました。私にはとうてい実行不可能なことですが、「目には目で、歯には歯で」という法が向かおうとしている方向を明確に示しておられます。

死刑制度の是非を問うとき、私たちがどのような倫理に立脚して社会を培おうとしているのか、そして、その土台となる宗教が良きもの(深みのあるもの)として存在しているかどうかが問われているように思われます。

宿命?運命?摂理?/「旧約預言者は運命を引き受けた」

似た言葉が3つ。大辞林によると、

宿命・・・前世から定まっており,人間の力では避けることも変えることもできない運命。宿運。 「これも-と思ってあきらめよう」

運命・・・①超自然的な力に支配されて,人の上に訪れるめぐりあわせ。天命によって定められた人の運。「すべて-のしからしめるところ」「これも-とあきらめる」②今後の成り行き。将来。「主人公の-やいかに」

摂理・・・①万象を支配している理法。「自然の-」②〔providence〕キリスト教で,この世の出来事がすべて神の予見と配慮に従って起こるとされること。

となる。が、・・・・・「旧約聖書の預言者はその運命を引き受けた」という言い方があり、その場合は、自由をもって選び取った結果を意味しているという。神の召命を受けて(宿命ではなく、摂理がそこに働いていることであろうが人には分からない)、預言者にとって思いがけないその召命に対して、結果として自由な意志をもって応答するに至る、その自由の結果を運命と呼び、上記の言葉となっているようです。

今日のお勉強はここまでです。