カテゴリー別アーカイブ: 日本
涵養
哲学者の國分功一郎さんの朝日新聞への寄稿の中に「人物の涵養」という表現を見出しました。以下、引用です。
民主主義における平等にはもう一つ別の側面がある。平等に与えられた権利にふさわしくあるよう、自らの言葉や考えを鍛え上げることが期待されるという側面である。アレント(注:ハンナ・アレント、現代ドイツの哲学者)は古代ギリシアの民主政を参照しながら平等と同等を区別し、後者の重要性を強調した(『活動的生』)。民主主義は民衆に、政治参加の権利を行使するにふさわしい水準の者どもと同等の存在になろうとすることを求める。だから民主主義社会では、教育による人物の涵養(かんよう)や報道による情報提供の必要性を誰も否定しない。
民主主義が成り立つためには、教育によってそれに参与するに相応しい人物を育むことと、良質な情報の提供が不可欠であると述べておられるわけです。
私は、「人物の涵養」という言い回しにここで初めて出会いました。もちろん、「霊性の涵養」という言い回しには馴染みがありました。それはキリスト教的背景のもとで語られていることです。「霊性」とは私の理解では、絶対他者である神による義と愛と平和によるご支配(すなわち神の国)を待望しつつ、それに向かって身を向け、かつ持続的にそこに向かい、牽引することができる気質のことです。
いずれにしても、それが培われるには雨が土の中に染み込んで、長い年月を経て帯水層を成すように(それが涵養という意味ですね)、長い年月を要する育みによるということです。その育みは良き伝統を継承し、さらに伝統を形成し続けようとする社会があってのことでありましょう。現代社会のように、経済中心で、移り変わりの激しい消費社会においては不可能なことなのかも知れません。民主主義の危機ということが言われているとすれば、そのあたりのことに深層があるのかも知れません。
毛づくろい
Twitterでフォローしている勝間さんのブログを書く理由です。「サル山のサルの毛づくろいのようなもの」は面白い。人間社会では「毛づくろい」が失われてしまって挨拶もしない社会になって、閉塞していないか、と考えさせられました。個人情報が知られないようと神経を使い、そうすることで個人を守らないといけないと思い込んでいる。殺伐とした社会に生きているのだから、と。「毛づくろい」などあり得ない。しかし、本当のところはそれを必要としているのではないだろうか。殺伐とした社会を助長していないか、少し考えて見なければならないと思う。
目には目を、歯には歯を
死刑廃止論議をめぐるシンポジウムのようなことが行われたのでしょうか。ニュースに取り上げられていました。難しい問題ですね。それを支えるために整えなければならない多くのことがあるように思いますが、死刑廃止実現への努力をすることが大切ではないかと私は考えています。
それはさておき、そのニュースの中で「目には目を、歯には歯を」という言葉を耳にしました。死刑制度の根底にある精神を表現する言葉となっているのでしょうか。復讐を是認し、それを満足させるための言葉として、一般には受け取られているようです。
しかし、そうではありませんね。元々は、際限の無い、雪だるまのように膨れてゆく復讐と怒りの連鎖を止めるための法として、定められたものですね。ハムラビ法典しかり、旧約聖書しかりです。「目には目で、歯には歯で」というのが正しい翻訳のようです。イエスさまはこれを受けて「右の頬を打たれたら、左の頬を出しなさい」と言われました。私にはとうてい実行不可能なことですが、「目には目で、歯には歯で」という法が向かおうとしている方向を明確に示しておられます。
死刑制度の是非を問うとき、私たちがどのような倫理に立脚して社会を培おうとしているのか、そして、その土台となる宗教が良きもの(深みのあるもの)として存在しているかどうかが問われているように思われます。
TPPに思う、そして教会のこと
国会で強行採決がなされたというニュースが流れました。政治のことはよく分からないのですが、TPPのような(内容はよく吟味される必要があるでしょうが)経済圏が作られていくというのは、グローバル化した世界では必然かと思います。
好むと好まざるとに関わらず18世紀以降の世界はグローバル化が進み、今では身近にいろいろな国の人を見かけ、外国の商品に囲まれ、インターネットを通じて地球の裏側に住む人とも直接話ができます。人と物との行き来が自由になり、国家の壁は低くなってきています。そんな状況を目の前にして、関税の壁を高く築いていたらその国は競争に負けてしまいます。グローバル化に対応していく必要があります。一国だけのことではなく、小さな経済圏ができたとしても、それを囲む壁が強力であれば、いろいろと不都合が起こるでしょう。
グローバルな世界では、グローバル化というプロセスを不断にすすめていくことが肝要です。TPPは実現しそうもない状況ですが、二国間のことであれ、同様のいかなる経済圏構想も、そのプロセスの途中にある一里塚であるならば良いと思うのです。
呼びかけ
日本基督教団社会委員会から「相模原の施設で障かい者に向かってなされた殺傷事件」に関連する呼びかけ文が公にされました。ご紹介します。
言葉、むずかしい道具
言葉は誤解されるもので、そのことを自覚して使わないといけなせん。
そんなこと今頃分かったのかと言われそうですが、改めて実感させられています。ことに日本語は曖昧なところがあるのではないかと思います。日本人の心情と結びついているのでしょう。
身近になぜか存在している「おばさん」が「ハッキリ言うことが大切ね」と時々仰せになります。が、日本語ははっきり言わないで大切なことを伝えるという特徴があり、それだけに、言葉に習熟することが求められます。
私の住んでいる浜松は、率直な物言いをする地域です。ときどき、ドキッとさせられる時もありますが、考えてみるとそれがグローバル・スタンダードです。他の地域で育った人は自覚して、慣れていかなければなりません。何年たっても難しい課題であるかも知れませんが。
私は性格的にいい加減なところがありますから、誤解されてもいいやとどこかで思っています。それだけに、他の人の言葉についてはできる限り好意的に解釈するようにしています。お人好しであることが大切なのかも知れません。「おばさん」は、そこで、「ハッキリ言うことが大切」と言うのですが・・・・
-ism
神学の分野で ism に対する警戒を唱えたのは K.Barth だと思う。それは、ややもすると絶対化、偶像化するからです。危機神学は -ism との戦いでもあったのだと思います。
若い時、同学年のバルティアンが、盛んに -ism に対する嫌悪を言葉に出していたのを思い出します。私たちは共に、その -ism を大切にする教派に属していましたので身近な問題でもありました。彼は今、某書店の社長をしています。
-ism に対して神経質になりすぎることも、それも一種の -ism ですから気をつけなければなりませんが、-ism に対して批判的な目を養うことは大切なことだと思います。
安保関連法案
法案を読んでみました。素人には法律を読むことは決して易しいことではありませんが、国連平和活動や国際平和活動で軍事的にも出来うる限りの積極的な関与を可能にし、アメリカ合衆国との軍事同盟においては役割の拡大をはかるというのが関連法案の主旨だということが分りました。
安保法制を整えるというのは政治の責任ですが、関連法案は解釈と適用・運用次第では憲法違反になると思います。ですから、関連法案自体が憲法違反であるということもできましょう。ただ、解釈と適用・運用が憲法違反にならないようにしている、ならないようにするというのが政府の主張のようですね。
その意味では、関連法案によってただちに憲法が無力となってしまうということにはならないのだと思います。まして、関連法案が憲法の上に立つことはあり得ませんから(あってはなりません)、憲法が関連法案の解釈と適用・運用に歯止めとして存在しているということになるかと思います。
法案が戦争をするわけではありません、国際状況と政策如何によります。その状況が何を強いるか、そして、それに政策的にどのように対応するのかが課題となります。平和を希求しつつ、腰を据えた議論が大切だと思います。
オーストラリア人口の半分はアジア・アフリカからの移民です
クリフ首相の「違法移民は帰れ」発言をいたずらに揶揄する人がいます。アボリジニの方の写真を添えて、あたかもアボリジニの方々がクリフ首相に対して「お前たちはいつ帰るのか?」と発言しているかのように。
白豪主義は昔のことで、現在オーストラリアの人口の半分はアジア・アフリカからの移民です。わずか40年、50年ほどで、人口の半分が移民となるほど移民を受け入れてきたのがオーストラリアです。なぜ、移民が増えるかというと、住みやすい国だからです。
それで、社会の急激な変化が起こり、困難な状況に置かれているのはその変化に対応できない人々です。オーストラリアに行って驚いたのは白人青年が街角で物乞いをしていることでした。また、ドラッグや麻薬に犯されているのも多くは白人青年です。その人たちのケアーをしている人にも会いましたが、移民を悪く言うことはありません。
豊かな白人に対して、アジアやアフリカからの移民は、それほど豊かではないでしょうが、まだ移民の歴史が浅いのでしかたがありません。それよりも、シドニーにもメルボルンにも東ロンドンのような地域はありません。また、どこかの国のようにヘイトスピーチを叫びながらデモをする人たちなどいません。
移民問題はグローバルな政治課題で、オーストラリアも岐路にたっているのは事実でしょう。それを、日本人が自らを恥じることなく面白おかしく揶揄しているとしたら、愚かなことです。そう思います。
三者三様
日本記者クラブでの小林、長谷部両教授の会見が報じられました。興味があったのでネットでですが、朝日、読売、毎日の報道を読みました。三者三様ですが、毎日の記事が明晰で良かったです。
私の関心は、この度の集団自衛権に関する法案が、なぜ憲法違反なのか、その論拠を両教授がどのように説明しているかでした。
うきうきイースター?
よく利用するスーパーマーケットの食品売り場に併設されているパン屋さん。うきうきイースターと銘打った小さなコーナーを用意しておられました。ウサギをデザインしたパンや、タマゴ型のドーナッツなどが置かれていたので、いくつか購入し、家でいただきました。来年もこのコーナーを設けてもらいたいと思ったのです。
ただひとつ。「うきうき」イースターにちょこっと違和感を持ちます。イースターが喜ばしい祭りであることに違いありませんが、福音書にあるように、恐れ、あるいは、畏れが伴っていることを忘れないようにしたいものだと思うのです。
嘆いてはいるが
寒い寒いと嘆いてはいるが、あと何回冬を越せるのだろうかと考えると、愛おしくなります。そうだ、温かい、美味しいものを食べて太ることにしよう。
金地院
浜松の北、東海道の関所があったところですが気賀という古い町があります。そこから山に少し上がったところに臨済宗の金地院という寺があります。
古い寺ですが、現在の住職のお祖父さまが再興しされました。そのお祖父さまは四国・宇和島のご出身で、宇和島のみかんの樹を移植して周囲に広めたそうです。
現在の住職は柔和で、軽快、かつお坊さんらしい風格があります。奥さまは三歩さがってご主人の後を歩くお方で、わたしの妻とは違いました。こちらは三歩先を歩きます。(これは内諸です)。
300年前に建てられた古い金堂が残っています。修復を待っていますが莫大な費用がかかるようです。その天上です。
ちなみに、このお寺の檀家代表は常磐幼稚園(今は閉園してありませんが教会付属です)の卒園生でした。
特定秘密保護法
本日の朝日新聞に4党が合意して衆議院を通過した「特定秘密保護法」の全文が掲載されていた。
国家と国民の安全のために秘密を必須とする(特定な)情報が漏えいされないように、特定秘密の指定と取扱者の制限、また、関連して必要な事項を定める法律である。素人には分かりにくいところがあるということと、当然、法律の解釈とその範囲、また実際の適用という問題が取扱者に委ねられることになるので、拡大解釈への不安が広く懸念されている。
グローバリゼーションという観点から考えると、国境の壁が低くなり、人と物の自由な行き来がさらに増大する状況のもとで、社会が民主的でありつつ安全と安定が確保されるという課題に直面していると言えよう。そのために市民社会のはたすべき役割が増大し、国家が担うことは相対的に小さくなるのである。しかし、国家が果たさなければならない役割は決して粗末なものではない。ある種、高度なものと言えよう。そのために、適切な情報管理が必要であるということは理解できる。
問題は、法運用の有り様である。わたしは運用の仕方如何によって、日本という国の存亡が決まっていくと思う。培われてきたこの国の民主主義の真価が問われると言ってもよいであろう。国会の議論はこの点から十分な評価を得ることができるようなものであるか、まず、真価が問われている。
飛行機の到着時間
ターミナルに着いた時ではなくて、空港に着陸した時が、到着時間だと聞いたことがある。たぶん空港の掲示板に表示される到着予定時間というのは、それだと思う。
しかし、〇〇便がただいま到着いたしました、とアナウンスされる到着とは、どうもターミナルに着いたという知らせのように思った。
たいした問題ではないが、そんな感じがしたので書いてみた。
高齢者には冬の到来か
T大学病院で医師をしている甥が、都会に住む高齢者には厳しい時代が来ると言っていた。病床が不足するという(病床だけのことではなさそう。医療や介護の態勢全般のことのようだ)。団塊の世代のことが考えられているのだろう。その世代のために病床を増やすわけにはいかないからだとか。
それは、介護保険を用いて自宅で最後をむかえたT姉妹(生涯独身だった)のことを紹介して、自分の思いが、ささやかだが実現し、最後をむかえるということが命の質を考えるとき大事だと話したときのこと。今後はそうはいかないだろうと言って甥が話してくれた。
老後をどうすごすか、また、どのような社会的な施策が必要なのか、考えなければならない時代が迫っているようだ。地方に移り住む高齢者が増えるかもしれない・・・・
書こうか書くまいか、迷っていること
オリンピック誘致に関連してNYTインタビュー発言が問題になりました。いろいろなことを考えさせられます。わたしは牧師ですから、あの発言の背景となっている日本文化寛容論に着目します。日本の知識人と呼ばれる方々でも平気で口にする独りよがりです。
ところで、キリスト教には神学という批判的学が存在します。批判とは事柄の本質に迫るための一つの機能ですが、その神学を不可欠としているということが肝要です。そして、それは聖書の中に最初から見られます。たとえば、福音書に取り上げられているヘトロをはじめとする弟子たちへの批判記事です。あれを辺境のガラテヤという視点でエルサレム教会が批判されているのだということを言って話題になった聖書学者がいましたが、そんな浅薄なものではありません。神学的機能が働いているのです。いずれにせよ、その批判的学にもっと注目して良いと思います。
最初の問題にもどりますが、日本の知識人と呼ばれる方々にも神学に触れてもらいたいと思うのです。イスラムに対しても同様です。無批判に日本文化寛容論を誇る方々は国際的には通用しないでしょう。
それで、書こうか書くまいか迷っていることですが、アベノミクスについてなのです。なんだか飛躍した話だと感じられるかもしれませんが、もしそれが独りよがりの思想を背景としているとしたら厄介なことだなと思うのです。
生産戦略
という言葉を聞いた。NHKBS放送のアベノミクスをめぐるグローバル・リベートでのこと。どこの国の人だったか、日本が取り組むべきことは経済成長戦略ではなく生産政略ではないか、と。経済成長には生産戦略が不可欠で、生産の質を高めることが必要だと言っておられた。
わたしは経済のことは良く分からないが、生産戦略がという指摘に共感した。新しい質の高い旺盛な物づくりへと向かう精神と環境が求められる。と、偉そうなことを書いているが、わが業界はどうなのか・・・・・
ドイツから帰ってくる人もれば、いく人も
留学から帰ってくるU氏、Nさん、お帰りなさい。これから行くAさん、元気で頑張ってください。若い人はいいなあ。いろいろトライできて。私の若い頃とはずいぶん違う。経済も許されなかったし。1ドル365円だったし。それだけではないが・・・・・
若い人はどしどし海外に行って欲しい。グローバル化の時代によく対応してもらいたい。そうしたら日本人も変わるかもしれない。
政府専用機は
ジャンボだった。そういえばそうだった。
アルジェリアで亡くなられた方、ご家族、関係者の方々のうえに慰めを祈ります。
久しぶりの総武線
総武線に乗ることはめったにない。おそらく、市川方面に用事がないからだろう。
千葉には車で行くし、船橋には東西線を使う。
今日は市川に行く。正確には本八幡。
行き方はいろいろあるが乗り換えの少ない総武線に決めた。
竜巻
アメリカの話ではなかった。つくば市で大きな被害が。
静かな東京も明日で終わり
GWはどこにも出かけない。東京が静かになるからだ。とくに六本木は閑散とする。
都内、ことに山手線内は交通量も少なくなり、自動車での移動がきもちがよい。渋滞がなくて、快適に運転すると、都区内ってこんなに狭かったのかと知らされる。
この静けさも明日で終わりなので、夕方から少しだけドライブでもしよう。
高速バス事故
ゴールデンウィークの悲しい出来事でした。辛い経験をなさったおられる方々に慰めを祈ります。
ところで、「ねむってしまった」というのは他人事ではない。今は、そんなことはないが、10年前まではうとうと運転をよくしていた。自己診断だが、わたしの場合は、無呼吸症気味だったのが原因だと思う。睡眠の仕方を工夫して改善されているのでご安心ください。
今回の事故は運転スケジュールの過酷さが背景にあるのではないかと言われている。バス会社の経営の厳しさ、価格競争の激しさが推測される。無理して働いている運転者さんも多々あることだろう。
これにはグローバル化も関係しているだろう。思い出すのは数年前のハンギリム讃美隊(ソウル・セムナン教会)来日のときのことだ。先方はソウルの観光会社と契約して日本でのバス移動を手配した。費用を聞いてびっくりするほど安かったということを思い出す。
ソウルの観光会社が契約した日本のバス会社(旅行業者ではなく、たぶんバス会社だと思う)だが、スケジュール確認のために連絡を入れても連絡がしにくかった。昼間はほとんどつながらず(電話に出ない)、やっと連絡がとれたのは夜だった。運転手さんたちがバスを動かしながら運営しているのかもしれない、と想像したのを思い出す。
銀座のクリスマス・イルミネーション
この時期、街はクリスマスのデコレーションで飾られる。が、多くはクリスマスとは無関係のように見える。
先日、銀座に行った。ツリーやイルミネーションが綺麗だった。さすがに銀座だなと思わせる上品な装飾である。
しかし、よく観察すると、クリスマスのシンボルがそぎ落とされている。ツリーにはベツレヘムの星はない。メリー・クリスマスという言葉もみあたらない。用いられているカラーは必ずしもクリスマスのそれとは限らない。
街のクリスマスは、もはや本来の意味を離れ、コマーシャリズムの道具となってしまっているようだ。
もちろん、昔からクリスマスはコマーシャリズムに浸食はされていたが、今日ほど、そぎ落とされてはいなかった。
牧師としては、そのような風潮を残念に思うとともに、教会の責任を感じる。
教会では心からクリスマスを喜び、独り子をお与えくださった神さまを礼拝したい。
HALLOWEENの夜、宗教改革記念日なのに
ほんの100mほどなのに、教会から表通りに出て行くとそこは別世界。
ハロウィンの夜は戦争。夜中の3時にパトカーからスピーカーの声が聞こえていた。
ハロウィンはカトリック教会の万聖節(すべての聖徒を記念する日)の前夜祭のことだが、そんなことはお構いなし、みな祭りが大好きで、加えて仮装することでいっそう盛り上がり、騒乱の夜となる。
ちなみに、10月31日はプロテスタント教会にとっては宗教改革記念日である。その日、マルチン・ルターがヴィッテンベルク城教会の扉に95箇条の提題を 掲示して神聖ローマ帝国全域に衝撃を与えた。
提題は、一般には贖宥券に対する批判と説明されるが、「正しい悔い改めとは何か」を問うたものである。
クルッと向きを変えて、みな、提題について考えてくれると良いのだかが・・・
三陸海岸
宮古から石巻まで三陸海岸を走った。大震災後、3度目のこと。
いっときの瓦礫の山はだいぶ片づき、いたるところに残っていた汚泥は見た目では綺麗に清浄されていた。ただし、宮古をのぞいて復興はまだまだ遠い先のように感じられる。
港は少しずつ動きはじめているようだ。もちろん、かつてのような賑わいを取り戻すにはほど遠いが、残っている漁船などが活動しはじめている。
横手の回転寿司
昼になったので13号線沿いの回転寿司に入った。東京にもある「かっぱ・・・・」であるが、なかなかのものだった。
横手のこの店は、今まで経験した回転寿司の中でトップ3に入る。どこの店に入っても、あっ、この握りは食べない方がよかったなあと思うものが二つや三つはあるのだが、ここは一つもなかった。どれもこれも平均点以上で、タコ類の種類の多さと美味しさが印象に残った。
その他に・・・・女性の店員さんが横手美人?しかも、応対がすばらしい。ということで食べ過ぎてしまったのです。
金山町
山形と秋田との県境にある金山町は小さいけれども綺麗な町だ。
昔の街並みを保存・リニューアルして観光地としてスキルアップ中と聞く。土日には観光客で賑わうようだ。どこと似ているだろうかと考えてみたが、思いあたらない。黒と白の組み合わを基調とした家や町は落ち着いていると同時に、不思議な華やかさが感じられる。
大堰(おおぜき)と呼ばれる美しく整備された灌漑用水が山からの清水を呼び込み田畑へと敷かれている。街の中心には大堰公園が作られていて先陣の偉業をたたえつつ、人々の潤いのスペースとなっている。
ほんの一時間立ち寄っただけだが、今度はゆっくりと街を廻ってみようと思った。
下記は昭和初期にこの地を訪れたイザベラ女史の印象記である。
After leaving Shinjo this morning, we crossed over a steep ridge into a singular basin of great beauty, with a semicircle of pyramidal hills, rendered more striking by being covered to their summits with pyramidal cryptomeria, and apparently blocking all northward progress. At their feet lies Kaneyama in a romantic situation, and, though I arrived as early as noon, I am staying for a day or two, for my room at the Transport Office is cheerful and pleasant, the agent is most polite, a very rough region lies before me ・・・・・・
ISABELLA L.BIRD “UNBEATEN TRACKS IN JAPAN”