Swayで説教作成

MicrosoftのSwayは、牧師が説教を作る(原稿を書く)うえで有用なツールではないかと感じています。

Swayは小さなカードを何枚も並べて一つのストーリーを作成するようになっています。そして、そのカードを並び替えることができますし、重要なカードを大きな文字で表示することができます。

説教はセンテンスが長くなりすぎないほうが良いと思います。一つの小さなカードに納まるぐらいの長さがちょうと良いようです。その点で、Swayのカードは有効です。

また、いくつかのカードの連なり、その連なりが大切ですが、カードを並び替えることができるのも良いです。

そして、説教には段落がありますが、段落ごとにティール・ザーゲと呼ばれるまとめの句ができます。まとめの句を目標にして段落ごとに論述・言葉の流れを生み出していくと言い換えても良いかも知れません。そのまとめ句となるカードは大きな文字で表示することによって、説教作成者にとっても説教が見やすくなります。

明後日の説教準備をしながらSwayで作品を作りましたが、作りながらそう思いました。

 

 

静岡説教塾

4年前に始まったそうです。静岡県の東海道線沿線の40代の牧師たちが中心のようです。

説教塾は25年ぐらいの歴史がありますが、わたしはその初期の時代のメンバーでした。30代後半から40代半ば頃のことです。昨日、中遠教会で静岡説教塾があるというので、出席しました。熱心な会でした。その情熱にふれて、嬉しく満足しました。

振り返ってみると40代のころが一番頭が働いていたようにおもいます。今は、バーベキューの墨で言うなら、燃え尽きる前の残りかすのようなものです。経験という燃えかすが、残り火をあつく覆ってしまっています。精神的には安定していますが・・・・

 

 

方言指導と説教

4月から某テレビ局で放送される連続ドラマで、出演者に方言指導をなさっている方にお会いした。ご自身、ベテラン役者で、一葉の一人芝居と取り組んでおられる方である。

方言指導というのは、ただある地方の方言・発音を正しく発声するようにと役者さんを指導するということではないそうです。だいたい、どんな優れた役者でも、自分が身につけている言葉と違う方言を、あたかも自分の言葉であるかのように正しく発声することは不可能で、それでも、身についた言葉で、心の底から発している、その不可能になるべく近づくように役者に演技をしてもらわなければならない。そのためには、発音・発声しやすい言い回しを見つけて台詞を工夫するようにしているのだとか。方言指導の奥の深さの一端を伺った。

話を伺いながら、2つのことが思い浮かびました。1つは、私が関西弁を使うと大阪出身の家内が不快に感じて、いつも、怒るということです。自分では正しく発音しているつもりでも、家内はそれを関西弁とは認めることができす、それだけではなくて、関西弁が、ひいては関西人が侮られているように感じてしまうようなのです。

2つは、教会の牧師が説教にたずさわるときの留意点です。説教者は聖書の言葉を説き明かすのに、先人の言葉に学びながら準備をしますが、何を目指しているかというと、目の前の聴衆の心に聖書の言葉が届くということです。その人の血となり肉となるということです。そこに、説教者の存在理由があります。そのための取り組みは、方言指導と共通点があるように思われたのです。

名説教者として知られている先輩牧師が、ある時、地方の某教会に招かれて説教した。とっておきの説教をなさったのです。しかし、初めての経験だけれども、その時は、聴衆に受け入れられなかった。そう言われたことがありました。そんなことがあるのですね。たぶん、その教会の人々の言葉とかみ合わなかったのではないでしょうか。言語・方言というだけではなく、日ごろその教会で説教をしておられる牧師が優れた方で、その言葉の世界に養われた方々には、違和感を与えた、ということではないかと思います。

iPadで原稿を見ながら・・・

結婚披露宴でのこと、新郎の上司がスピーチをされた。若い方だったが立派になさっておられた。印象深かったのは、その方が紙に書いた原稿ではなくiPadを持っておられたということである。スピーチ・メモが表示されていたようだ。

今週になって、比較的若手の親しい牧師と話をした。この人も一昨日の日曜日、礼拝説教のおりにiPadを使ったとのこと。その日、プリンターが壊れてしまい説教原稿を紙に印字できなかったので、しかたなくそうしたようだ。

使用具合はどうだったのだろう。披露宴のスピーチ・メモであれば一画面で済むだろう。説教原稿はそうはいかない。となると、例のごとく指でページを移行させなければならない。けっこうやっかいなことかも知れない。

さて、自分のことであるが、もしもタブレットを使うとしたら、windowsタブレットでも、androidタブレットでもなく、iPadになるだろう。理由は操作がシンプルで、画面が見やすいからである。しかし、たぶん、使うことはないだろう。と、今のところは思っている。

まいった、難しい文章になってしまった

「キリストの体」を取り上げて短い説教を書くようにと依頼され、書いて送った。我ながら難しい文章になってしまった。関西風に言うと、漢字の多い文章、ということになる。自己嫌悪に陥っている。

依頼してこられた方が、聖霊降臨日との関連でキリストの体を、というお話しだったので、教会論との関わりでキリストの体が取り上げられているエフェソ書から学ぶことにした。説教題は「キリストの体、聖なる教会」。教会生活への畏れと、教会にたいする信仰とを分かち合いたいと思った。

復活節の疑い

という言葉がある。

イエス・キリストの復活を疑うということではない。そのことを疑うというのであれば、別に「復活節の疑い」などという言葉を生み出す必要はないであろう。そうではなくて、復活節には死の確かさへの疑いが始まっているということである。死んだらすべてが終わり、ということが疑われ、死が揺るぎ始めるのである。

ちょうど復活の日の朝、婦人たちが墓に向かう道すがら、墓の入り口に据えられた大きな石が悩みの種であったけれども、行ってみるとその石は動かされていたように、揺れ動くのである。弟子たちの頼りなさについても疑いおこる。彼らが確かな人となったというのではない、主イエスが「世に終わりまで、あなたがたと共にいる」と仰せになるからである。

昨日の説教

マタイによる福音書8章23以下
嵐に襲われた舟の中で「イエスは寝ておられた」。恐れ惑う弟子たちの助けを求める言葉「主よ、助けてください。おぼれそうです」は教会の祈りのことばとなった。

パースペクティブ

私が身近にパースペクティブという語を聞いたのは20年ほど前のことだった。説教塾でK先生が説教におけるパースペクティブという問題を提起された。その語の意味をすくに理解した同僚牧師はほとんどいなかったと思う。今なお不透明であるが、聖書テキストがもつ神学的視野、説教黙想の視界、心に映し出される説教の造形などを表現する語なのかなと勝手に考えている。

この語は絵画の遠近法、透視図法の意で、目に映る像を平面に正確に写すための技法として一般に知られているが、最近、カメラのあるクチコミ掲示板で画角と遠近感等をめぐって話題になっているのを知った。議論は混乱している。それを読んで、立体的なものを人間の眼とは違って、レンズを通して一枚の平面上の写真に写し取ることが、あるいは、人間の眼に映る像というものが、そんなに単純なことではないのだなということが分かった。

パースペクティブ、分かって分からない語が、事柄の奥行きの深さへと誘う。

昨日の説教 マタイ6章25以下

「思い悩むな」との主のお言葉。

24節の「神と富とにかね仕えることはできない」との言葉に導かれて綴られている。思い煩う人生だが神の御手のもとにあるのだということを教えられる。「空の鳥」「野の花」も、そして、わたしたちも。

その私たちの日々の労苦は、主のお言葉の中では隠れている。隠れて良いのだ。神の御手のもとに隠れてこそ「十分」なものとなる。

明日の説教

マタイ福音書5章43以下。
「隣人を愛し、敵を憎め」とはレビ記19章の律法を解釈した言葉。主イエスは「敵を愛し、迫害するもののために祈れ」と教えられたら。
悪意をぶつける隣人、不利益をもたらす隣人。その隣人を愛することは不可能である。しかし、主イエスは祈るようにと言われ、そこに隣人を愛する道があると仰せになっておられる。
祈るとはありのままの自分を、善人にも悪人にも太陽を昇らせ雨を降らせる神に見ていただくことだと思う。

昨日の説教

マタイ福音書5章1-11。山上の説教の最初に記されている「幸いの教え」である。

山上の説教は新約聖書の律法とも言えよう。ユダヤ戦争後のユダヤ教が律法を中心とするラビ的ユダヤ教として再出発しようとする、同じ時期にマタイ福音書は編まれた。教会には福音に根ざした律法解釈が求められた時代と言えよう。それは「幸いなるかな」という福音の響きによって語り始められる。

明日の説教

マタイ福音書4章の漁師たちを弟子としてお召しになったというところ。
主イエスは漁師たちを弟子として招くために、彼らのところに赴かれた。ペテロたちは、従って行くことで弟子となったのではなく、主イエスが近づき呼び集めてくださったので弟子とされたのである。それは思いがけない出来事だったに違いない。
人を漁るという主イエスの言葉は、旧約聖書の預言者たちの言葉使いとは180度違って、罪人を神の国へと招くという意。これも思いがけないこと。弟子たちはその福音を身に帯びて、招くため遣わされる。エクレシア(呼び集められたものたち)の歩みは、ここにすでに始まっていた。

からし種一粒

一昨日の説教箇所はどこでしょう?「からし種一粒」という言葉が出てきます。正解は最後に書くとして・・・・

お昼のワイドショーを見ていたら、松下政経塾のことが取り上げられていた。野田首相以下、塾卒業の国会議員は30名異常いるとか。そんなことはどうでもよくて、野田首相がかつて若かりし頃に松下政経塾でのスピーチがほんの少し録画で紹介されていた。その中に「一粒の麦」という言葉が出てきたが聖書の中の言葉だということをご存知だろうなあ。

で、政界はルカによる福音書17章1−10。弟子たちが「信仰を増してください」と願いでたとき、主イエスが「からし種一粒の信仰」と。

金持ちとラザロ

今日はルカによる福音書16章19ー31でした。イエスさまがお話になった「金持ちとラザロ」の譬です。

あるご婦人が「ラザロはけなげなな人ですね。聖書を読んでいて涙が出ました。」と言われました。大きな病を経験された方です。どのようなお気持ちを言い表しておられるのか、わたしの思い巡らしがはじまりました。