「ヘブライ語小史」紹介第4章その2

ダビデとソロモンのもとでの民族の統一に帰せられる(前998ー926年)第一神殿時代の古典ヘブライ語には二つの特徴が見られる。と記して前回は「つづく」としました。

その「つづく」がここでのお話となりますが、そのことと関連してすぐに分裂王国時代(ラビンは「王国時代」とよんでいます。)のヘブライ語へと話が移行していきますので、今回は第4章その2としました。

個性の獲得

その(際立った)特徴の一つはアラム語に似た形を除外したことです。もう一つは前の時代のsha-をさけて一貫して接続詞asherを用いていることです。
いずれも統一と独立を達成したばかりの民族の言語にとって、自分たちの言語を近隣の言語から区別しようとした結果です。前者は周囲の国々の言語として用いられ、またイスラエル諸部族の方言にも浸透していたアラム語と区別しようとした結果であり、後者は自分たちが受け継いだ多様な方言の中から他の言語に見出せない発音、文法、形態あるいは語彙が選び取られた(選択された)事例です。それによって「自分たち」の言語が容易に、またすみやかに同定できる記号としての役目をなすことになったのです。このようにしてヘブライ語の個性が生じた、とラビンは考えています。

文学的優雅さの獲得

王権の制度下に用いられた公用語はおそらく何となく味気のないものであったが、やがてそれが修辞法と伝統的知識の含蓄のある公式化に馴染んでいた祭司たちによって神殿で使用された時、それは文学的な優雅さを獲得した。ことに、神殿の歌い手のために歌詞を書いた作者は、古典ヘブライ語の一般的性格を保持しながら、もちろん前王国時代の現存する詩的伝統を用いた。すでに言及した北部の詩のほかにユダ的詩もあっらであろう。また、ソロモのもとでのカナン国家への完全な統合は、詩人に文学的優雅さを持った言葉を提供し、言葉を紡ぎ出す技能の向上を可能にさせた。ヘブライ語の文体にとって重要なことは、詩の形態、特に対句法を用いた話術が生み出され、この文体がほとんどの預言者に採用されたことである。
預言者的思惟の熱烈さによってかきたてられた修辞法と詩の結合は、古典ヘブライ語をイザヤとエレミヤに見出されるような気品のある表現による伝達手段に変えたのである。

以上があらすじです。ラビンはその後他の言語が古典ヘブライ語に与えた影響について論じています。その中で、預言者アモスとホセアに見られる特徴について言及していますので、それを紹介して次に移りたいと思います。

続く(時間をおいて、ここに書き加えます)

前回については下記をクリックしてください。

「ヘブライ語小史」紹介第4章その1のつづき

なお、いいわけを下記に記していますので、よかったらお読み下さい。

牧師のブログ

 

 

「ヘブライ語小史」紹介第4章その1のつづき

偉大な叙事詩において古典ヘブライ語へといたる端緒が拓かれましたが、その後の推移をラビンはどう見ているのでしょうか。それがここでのテーマです。

その1のつづき

先に記した『偉大な叙事詩』とその詩的言語は、ペリシテ人の脅威に直面したイスラエル諸部族(北諸部族)の統一に役立ち、サウル王の時代を経てダビデ・ソロモンの時代には全イスラエルの共通の言語になっていった。『古典ヘブライ語』の成立である。

つまり以下のような経緯が観察されるとラビンは言います。

南のユダ族出身のダビデは北諸部族に対する力を手中におさめ、南北統一を果たし、エルサレム征服して首都としました。ダビデは全イスラエル部族から選び出した兵士をエルサレムに住まわせ、全ての部族の成員が協力して任務を果たす軍隊を組織しました。ソロモンはエルサレムに神殿を建て、全国から祭司とレビ人を連れてきて神殿に仕えさせたのでした。神殿は巡礼祭および残りの年に行われる個人的な犠牲のためにやって来る全ての地域の人々を魅惑したことでしょう。神殿と宮廷の周辺には、書記、知恵の教師、そして預言者といった知識階級が現れました。。彼らは異なる部族の出身者から構成されていただけでなく、その教えがあらゆる部族に届き、そして全ての者に等しく良く理解されるような仕方で聞かれるようにと配慮したにちがいないのです。以上のようなことに加えて、言語の発展の観点から見て、最も重要なことはソロモンが全土にくまなく文官を置いたことです。そのことによって、あらゆる人々が彼らと接するようになりました。また、強制労働の義務であらゆる地方の人夫たちが彼らの居住地以外で、国の他の地方出身の男たちと一緒に働きました。

つまり、高度に中央集権化された政体は統一された言語を必要としたのです。ラビンは申します。「行政には王国の全ての地域において障害なく理解され、また役人の誰もが速やかに学ぶことができる書き言葉と話し言葉が必要であった。さらに一方では、複雑な行政、強制労働、神殿祭儀そして列王記上10章に述べられている、急速に伸びていく外国との通商などに関連のある多数の新しい概念を、効果的に表現するための申し分なく豊かで、そして採用し得るそれらの言葉がなければならなかった。」。そして、さらに、「この言葉は最初異なる部族出身の人々の接触により、首都特に宮廷において生み出されたものとおもわれる。そしてさらに、首都ならびに宮廷の言語としての威信によって、エルサレムから送り出される役人たちに運ばれて広がっていったと考えられる。」と述べて、ひとたびこの新しい共通の言語が、公式の記録の中で使われ始めると、当然のこととして宮廷の年代記の著者たちにも使われるようになり、したがって一部はこのような年代記からの抜粋に基づいている列王記も、彼らの言語を反映していることは疑い得ない。
この言語の形態がダビデとソロモンのもとでの民族の統一に帰せられる(前998ー926年)第一神殿時代の古典ヘブライ語である。そうラビンは考えています。

つづく。

ラビンはこの言語の際立った特徴を二つあげていますが、しばらくお待ちください。

「ヘブライ語小史」紹介の続き

病のためやむなく中断していた「ヘブライ語小史」の紹介を再開します。

ハイム・ラビン「ヘブライ語小史」(毛利稔勝訳)を読む
第4章 聖書のヘブライ語 その1
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4章には表題のように、聖書の時代におけるヘブライ語の成立と発展、また、その特徴について論じられいます。著者は本文を区切っていませんが、紹介のためにとりあえず、3つに区分することにします。今回はその1ということになります。
取り上げるのは、ヘブライ語(著者は第一神殿建設から王国滅亡・第一神殿の破壊と捕囚に至るまでの期間使われていたと考えられるヘブライ語「古典ヘブライ語」と呼んでいる。)の成り立ちについて論じている部分です。

ペリシテ人の脅威と偉大な叙事詩

エジプトからの脱出とイスラエルの勝利を歌う偉大な叙事詩が所謂士師の時代に誕生し、それがヘブライ語成り立ちの初めであると著者は考えているようです。
士師の時代、後にイスラエルとなる諸部族は山岳地帯に孤立して散在するようになりました。まだ文字をもたなかった時代にどのような言葉を話していたか、正確なところは分からないでしょう。ただ諸部族は分断されており、それぞれ固有の方言(「方言」と表現されていることに注意して下さい。それは、孤高ののあるいは孤立した言語ではなかったということです。)を話していたと想像されます。その時代に偉大な叙事詩が生まれました。士師記5章のデボラの歌、サムエル記上2章のハンナの祈りはその一部分であった。また、言語上の共通点が多く見られる創世記49章のヤコブの祝福、出エジプト記15章紅海の歌、民数記24-25章のバラム物語の中の詩、申命記32章の歌、そして申命記33章のモーセの祝福も同様に、偉大な叙事詩を構成する部分であった。その叙事詩はエジプトからの脱出とイスラエルの勝利について述べており、一部族の伝承ではなく、民族全体の伝承と言える。言語も一部族の言語では無く、他のすべての部族の方言(言語)とも異なっている。けれども、皆等しく理解出来る。そのような詩ならではの言語で綴られていた。主題は「主の民」(士師記5章11節)であって、それはペリシテ人に対する共同作戦のため、諸部族を統合するために機能した、というのです。
つまり、諸部族の共通の歴史として語り伝えられるようになったのですが、その叙事詩が後に聖書の中に織り込まれて残された。それが最古のヘブライ語による詩とその痕跡と考えられると著者は言います

シロの聖所

ペリシテ人による脅威とともにシロの聖所における祭儀が北部諸部族を言語の上でも結びつけました。シロの聖所と祭司達が伝承の担い手となったということです。

デボラの歌から見えてくるその言語の特徴

著者はヘブライ祖語のみならず、アラム語とその歴史、フェニキアの言語についても造詣が深く、その知識を下敷きに議論しています。それで、筆者にはいささか煩雑に感じられ、能力の限界をはるかに超えていますので、大切な部分ですが大胆にカットし以下のことを紹介するにとどめたいと思います。
デボラの歌から見えてくることは、偉大な叙事詩において用いられている言語が超部族的であるがゆえに、異なる言語からの形態を取り入れることが出来、かつ、文体上の効果のために、それらを積極的に用いているということです。そこに全ての部族に理解可能なものとなった所以を見て取っています。
かつて通用していたこの詩的言語はシロにおいて全ての部族からやってくる男たちと、その意思の疎通のために、祭司職によって用いられた。つまり一つの言語(ヘブライ語)として熟成していく端緒を見ることができる、というのです。

つづく

あたらしい翻訳のパイロット版

日本聖書協会があたらしい翻訳の聖書を準備していると言う話は聞いていた。そのパイロット版が世に出たようだ。ほんの一部分だが読ませてもらった。

どうも歳をとったせいか、かつてとは違って新しもの好きではなくなったようだ。興味を喚起されなかった。

聖書事業が祝されるように祈る。

桜の舞とステファノの言葉

今週、浜松は桜が満開でした。そろそろ散り始めているでしょうか。

桜吹雪と言いますが、たくさんの花びらが舞い散るようすはなんとも言えない風情というか、絢爛かつ儚いそんな美しさがあります。

水曜日はお近くに桜の木がたくさんあるH姉さん宅で聖書を読み祈る会を持ちました。聖書の学びは使徒言行録7章44,45節です。ステファノの演説で、語の彩りに圧倒されました。桜の舞という感じです。

ステファノは最初の殉教者になりました。

アラム語

イエス・キリストはアラム語を話していたと言われます。十字架上の言葉「わが神、わが神、なにゆえ私をお見捨てになったのですか」ですが、マタイ福音書の「エリ、エリ・・・」はヘブライ語で、マルコの「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」はアラム語だと言われています。

いったいアラム語って何?と聞かれて、どのように答えて良いのかいつも戸惑うのですが、ハイム・ラビンが「ヘブライ語小史」の第3章『ヘブライ語の背景』の中で言及していますので、それを紹介します。

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続きです・・「ヘブライ語小史」3章の紹介

ハイム・ラビン「ヘブライ語小史」の3章『ヘブライ語の背景』では、聖書のヘブライ語が一つの言語として形成されるに至った、その背景について論じています。ヘブル語の成り立ちですね。多くのページが割かれています。

「ヘブライ語の属している語族が非常に多く、また広範囲にわたるということが明らかになってきた。それはハム・セム語族とか、アフリカ・アジア語族、あるいはエルトゥラー語族など、ざまざまな仕方で呼ばれる。」

エリュトゥラー語族というのは聞き慣れない表現ですが、紅海に由来する言葉で、ちょうど紅海で区切られる広大な二つの地域・語族全般を言い表す表現のようです。

 

こう書き始めて、ヘブライ語と同じ祖語を持っていたり、影響を与え合ってきたであろう関連する語族は広範囲であると語り、

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ヘブライ語文字入力

生まれて初めて、PC(windows)でキーボードからヘブライ語文字を入力しました。ちゃんと右から左に向かって表示してくれました。ただし、母音の打ち方が分かりません。打てないのでしょうか・・・

ちなみに、最初に打った言葉は הלך ハーラフ「歩く、行く」です。アブラムがアブラハムに、サライがサラにと名前が変わったことについて説明するためでした。二人とも ה (へー)の文字が加わったのでした。創世記17章ですね。

(ちなみに、Mac はやはり良いですね。これはMacで打った הָלַךְ です。)

第二神殿崩壊(紀元70年)後のヘブライ語は

(ハイム・ラビン「ヘブライ語小史」2章『ヘブライ語の発展』に書かれていることを少しご紹介します。)

一般に、ヘブライ語は紀元70年以後は「死語」となり、専ら祈りの言語として役割を果たしてきた、つまり、ヘブライ語で書かれた書物もいくらかあったものの、新に付け加えられたものは何もなく、ずっと古い状態のままだったと考えられています。この見解は下記の点で間違っています。

1、ヘブライ語が話されなくなったというのは本当ですが、文学活動は大変盛んでした。70-1948年に書かれた書物の数は数万冊。

2,語彙が豊かになるのは話言葉においてではなく、主として書き言葉においてです。新に増し加わった語彙は何万語に及びます。

ラビンは、この章で、ヘブライ語は話し言葉としては使われなくなったけれども、他の言語と同じように各時代に対応して大きく発展してきたと記し、その様子を素描し、紹介しています。

テキストの固有性を

聖書を読むときに注意を払わなければならない大切なことの一つは、読んでいる箇所(テキスト)が語るテーマ、あるいは神学的な主題に着目し、テキストの固有性に気づいていくということだと思います。

たとえば、創造論がテーマとなっているテキストの中に、いとも簡単に救済論を読み込んでしまうと、それが救いについて多少なりとも適切に語っているとしても、黙想はおかしな方向に向かい、あれやこれやで、答えのない詮索が始まり、混乱したまま、せっかく読んでいる聖書箇所からは離れて、違う諸テキストを放浪するというようなことになりかねません。

ピントのはっきりとした写真に心が惹かれ、その写真から感銘を受けるように、テキストの主題を的確に捉えるならば、注意深くテキストへと思いがいたり、その固有性の面白さに目が開かれて、テキストが語ろうとしていることに心躍ることになりましょう。

私たちにはそれぞれ自分が抱いている固有な関心がありますから、聖書テキストの中にその関心をぶつけがちです。ある意味、自分の関心に対して速やかな答えを求めるわけです。その関心は大事なことですから抱き続けなければなりませんが、聖書のある箇所を読もうとする時、いったん自分の関心事から離れて、テキストが語ろうとしている主題をとらえ、その固有な語り方に目をとめ、お風呂に入るようにテキストにどっぷりと浸かってみるということが肝要だと思います。

今週、こんなことを改めて考えさせられました。

土の希望

という言葉がある。K.バルトに由来するようだ。

土の塵で創られ、土と分かちがたい存在である人間が、キリストにある復活の希望のもとに土に帰るとき、それは土の希望となる、そう語ったというのである。心に留めたい言葉である。

土の器(2コリント7章)というパウロの言葉も思い起される。土はラテン語でHumus、人間は英語でhuman、悔いくずおれる用意のある者である。

捕まえて、無理に

キレネ人シモンは、無理に主イエスの十字架を担がされたとマタイ福音書に書かれています。

このシモンの姿は「自分の十字架を背負って」と主イエスが言われた弟子の姿を表しているのではないだろうか。自分の十字架とは、彼の(キリストの)十字架とも解釈可能だから・・・・・その時、シモンだって自分自身の重荷を背負っていたことだろう。そのシモンにキリストの十字架が重ねられた。そして、ゴルゴダで主イエスはシモンの重荷と共にご自分の十字架を引き取られた。

「無理に」とはシモンが自覚するよりももっと深く、徹底的にということであろう。ルカ福音書は、この時、人々がシモンを「捕まえて」と記しています。「捕まえて」とは、しっかり握って離さずに、主イエスのところに連れて来て、それこそ、無理矢理に十字架を担がせたということを意味しているようです。

「捕まえて」と訳されている言葉ですが、新約聖書にそれほど多くは用いられていませんが、主イエスの御手の働きをを伝えるときに、何度か登場します。たとえば、ベッサイダに行かれたとき、人々がひとりの目の見えない人を主イエスのところに連れて来ました。その時、主イエスは、その盲人の手をとって、村の外に連れ出し、両方の目につばをつけて、両手をつけて、お癒しになりました。主イエスが盲人の手をとって、連れだした、それがこの「捕まえて」と訳されている同じ言葉が用いられています。この目が開かれた人は、エルサレムへ、十字架へと向かう主イエスについていき、証人となりました。主イエスは、その人を捕らえておられたのです。

また、弟子たちが誰が一番偉いかと言って、言い争ったことがありました。主イエスは小さな子どもを取り上げて、「誰でも幼子を私の名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と仰せになりました。幼子を取り上げ、その取り上げて、という言葉が「捕まえて」と同じ言葉です。小さな弱い幼子は、主の御手の中にありました。

ガリラヤ湖でのことです。夜、主イエスは海を歩いて弟子たちの乗っている舟に近づいて行きました。気づいた弟子ペトロが「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください。」と言いました。主イエスは「おいでなさい」とペトロをお招きになったので、ペトロは舟からおりて、水の上を歩きはじめました。しかし、風を見て恐ろしくなり、おぼれかけてしまい、、「主よ、お助けください」と叫ぶのでした。主イエスは手を伸ばし、ペトロを捕まえて言われました。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」 弱さに沈むペトロに主イエスは手を伸ばして、しっかりと捕まえられたでした。

キレネ人シモンは人々に捕まえられて、主の十字架を無理に運ぶことになりましたが、そのシモンも、主イエスに捕らえられたのです。

「捕らえられ」「無理に」とは意味深長な言葉です。