2018年は

下記の文章を週報に載せていただくようにおねがいしました。


「2018年は」という題でささやかな、しかし真剣な希望を書かせていただきます。
昨年の教会総会の折に日本キリスト教団・教会の教勢の低下と教会の存続に関して悲観的な見通しを述べ、しかし「教勢が落ちていったとしても、主にお仕えすることについては、いよいよ成長していきたい」とお話しさせていただきました。
具体的には、教会をお建てくださる聖霊の働きにあずかり、仕え、共に聖書に聞き、御言葉を分かちために聖書黙想に取り組みたいと申し上げました。
そう申し上げた週に私が脳出血に倒れ、5ヶ月以上も教会を開けることになってしまいました。教会の存続どころか私の生命の見通しが立たないような状況を迎え、皆様にご迷惑をおかけしました。けれども有難いことに、お支えいただき、お祈りくださって、今日に至りました。
「終わり」を自覚しながらも、今日なすべきことを教えられ、主の業に励みたいと願っています。そこで聖書黙想を遅くなりましたが始めたいと思います。最初は水曜日の祈祷会において、そして徐々にその機会が広がっていけばと願っています。
聖書黙想は難しいことは何もありません。その日に与えられた短い聖書箇所を読み、黙読し、自分たちの生活に関連して心に響いた言葉を紹介しあい、最後に祈るというものです。
この聖書黙想を重ねていくことで、聖書が私たちの身近なものとなり、味わい深く聖書に触れることになると確信しています。聖霊の働きと、聖書が心に開かれることを待ちつつご一緒に取り組んでまいりましょう。
1月24日(水)からはじめたいと思います。場所は牧師館を予定しています。宜しくお願いいたします。

召命感とは何

最近、改めて考えさせられている。

召命は英語でcalling、ドイツ語でberuf。これらの語に微妙な意味の違いを受けとめる人がいます。

10年ほど前に、ある会合で元日銀総裁のH氏の隣にすわった。ちょうどその頃、日本伝道会というところから伝道パンフレットが出されていて、その1つにH氏の文章が掲載されていた。ご自分の仕事を神からの召しとして受け止めているという内容だったと思う。題は「召命」。H氏にその時パンフレットを読ませていただいたと申し上げたところ、「召命」という題に、あれは私がつけたものではないと、いささか憤慨しているという口調でおっしゃられた。

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あたらしい翻訳のパイロット版

日本聖書協会があたらしい翻訳の聖書を準備していると言う話は聞いていた。そのパイロット版が世に出たようだ。ほんの一部分だが読ませてもらった。

どうも歳をとったせいか、かつてとは違って新しもの好きではなくなったようだ。興味を喚起されなかった。

聖書事業が祝されるように祈る。

ネットで結び、二箇所で同時に礼拝が?

できないでしょうか。

スマホやタブレットがあれば、プロジェクターで投影して可能ですね。Skypeやhunngoutを利用すれば良い、とある方が教えてくださったので、さっそくhungoutなるものがどういうものか、使ってみています。なるほど、出来そうです。

同時に礼拝と言っても、一方向の情報伝達ではなく、双方向伝達をセットすれば、A教会で説教者がご用にあたり、B教会ではオルガニストが奏楽し、またどなたかが司式をする。そのようにして同時に礼拝を守ることができます。礼拝後には二つの教会の短い交わりの時ももてそうです。

真剣に、取り組んでみませんか?

 

10年たつと?、と

東京神学大学の入学式に出席してきました。20数名の入学者だったかと思います。少し平均年齢が高いように思われました。

さて、久しぶりに母校に足を踏み入れて、なぜか思い出したことがあります。私が在学中のことですが、故北森嘉蔵教授と乗り合わせたBusの中で父が交わした会話です。

「先生、うちの息子は大丈夫でしょうか」
「・・・東京神学大学では・・・
卒業して10年たって実力が発揮される・・・そのような教育をしております。」

家に帰ってきた父は、可笑しかったのでしょう、笑いながら母に話しておりました。45年ほど前のことです。

さてさて、すでに、とっくに、ゆうに、10年は過ぎています・・・・

22世紀に向かう84歳

今日、22世紀の教会を展望して準備を進めなければいけませんね、と84歳のご老人にはっぱをかけられました。

思い出すのは教団21の立ち上げの時です。20年以上前のことです。高く厚い壁が立ちはだかっており、それを憂う者たちはというと、憂いを共有しながらも戦いは別々、いがみ合うという状況でした。

当時の若手、50歳以下の牧師たちの多くが、地方で伝道していましたが、その状況を打破したいと、高く厚い壁を目の前にしているとしても、祈りをあわせて協力し、21世紀の健やかな教団を考えて準備していこうと教団21を立ち上げたのでした。

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アメリカ大統領の宗教的役割―「これまで」と「これから」-

という題で、講演をうかがうことになりました。

日本基督教団東海教区西静分区では牧師会が、東京神学大学名誉教授・棚村重行先生と、奥さまで東京女子大大学教授の棚村惠子先生をお迎えして、研究会、講演会を行うこととなりました。

わたしの教会では、3月5日(日)午後2時30分より「講演と懇談」の会を行います。主たる講演は惠子先生による上聴き主題でお話しいただきます。

以下のようなご講演についてのガイダンスをいただきました。

アメリカではトランプ大統領が就任しました。キリスト教国アメリカでは、これまでは大統領が国民を一つにする宗教的役割を果たしてきました。しかし、新大統領の登場は、アメリカを分断するのではと危惧されています。大統領の宗教的役割について歴史を踏まえてお話したいと思います。

棚村惠子先生のことを紹介します。

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目には目を、歯には歯を

死刑廃止論議をめぐるシンポジウムのようなことが行われたのでしょうか。ニュースに取り上げられていました。難しい問題ですね。それを支えるために整えなければならない多くのことがあるように思いますが、死刑廃止実現への努力をすることが大切ではないかと私は考えています。

それはさておき、そのニュースの中で「目には目を、歯には歯を」という言葉を耳にしました。死刑制度の根底にある精神を表現する言葉となっているのでしょうか。復讐を是認し、それを満足させるための言葉として、一般には受け取られているようです。

しかし、そうではありませんね。元々は、際限の無い、雪だるまのように膨れてゆく復讐と怒りの連鎖を止めるための法として、定められたものですね。ハムラビ法典しかり、旧約聖書しかりです。「目には目で、歯には歯で」というのが正しい翻訳のようです。イエスさまはこれを受けて「右の頬を打たれたら、左の頬を出しなさい」と言われました。私にはとうてい実行不可能なことですが、「目には目で、歯には歯で」という法が向かおうとしている方向を明確に示しておられます。

死刑制度の是非を問うとき、私たちがどのような倫理に立脚して社会を培おうとしているのか、そして、その土台となる宗教が良きもの(深みのあるもの)として存在しているかどうかが問われているように思われます。

牧師のブログをはじめる

教会のHPをリニューアルしたついでに、牧師のブログをはじめました。いわば、公式のブログです、教会に関連することも書き込むことになります。教会HPから入ることができます。

このブログは私的な気楽なものですが、牧師のブログとなるとそうはいきません。緊張しています。

それにしても、ブログはなんのためにあるのかというと、私の場合は日記代わりで、思い出を書きとどめておくというのがおもな目的となっています。教会ブログは、同じように、教会日記代わりということになるでしょうか。

日記と言っても、書けることと書けないこととがあります。書けないことのほうが多いかも知れません。それでも、教会と教会をとりまく様々なことを牧師の目をとおして見たり、聞いたり、感じたり、考えたりしたことを書きとどめることができたら良いかなと思っています。

教会のHPはこちら、牧師のブログはこちらです。

ネットで共同作業ができるのに・・・

ネット上で情報を共有したり、共同で何らかの作業に取り組んだり、協議や議論ができるだけではなくて、上手に整理しまとめていくことができる、そんなツールが無料で提供されているのに、牧師の世界ではほとんど使われていない。

理由は簡単。やる気がないのである。

ソウルに

今週、静岡教会での静岡地区の東京神学大学後援会の会議を終えてソウルに向かいます。

このたびのソウル行きにはいろいろな意味がありますが、一番大きなことは、ナグネ宣教師の派遣期間の更新に伴って、大韓イエス教長老会総会(本部)、長老会神学大学(ナグネ宣教師が神学教師として奉職している神学校)、そして、大韓イエス教長老会セムナン教会をお訪ねすることです。教団議長や世界宣教委員長などと共にまいります。ナグネ宣教師の派遣をとおして日韓の宣教協力が強められていますが、さらにその関係を発展していくために必要なことです。

さらに、私は昨年セムナン教会からシニアス合唱団をお迎えしましたので、その感謝をお伝えしたいと思っております。また、セムナン教会日本語礼拝で説教をいたします。この日本語礼拝の前身は日本語聖書研究会でした。もう10数年まえですが、その当初から交わりをいただいておりましたので、特別な思いを持っています。

ことに、日本語聖書研究会のメンバーであった延世大学名誉教授で世界改革派教会協議会の副議長を長くつとめられたセムナン教会の廬長老(故人となられました)が特別な配慮をしてくださり、今日、日韓のさまざまな青年交流のきっかけを作ってくださいました。その最初の日韓青年交流の折に、私たち日本からの訪問者を通訳として迎えてくださった当時の青年たちが、今日まで変わらずに交流を支え、また、ナグネ宣教師の働きを支援する「ナグネ会」のソウル支部の柱となってくださっています。日本語礼拝のメンバーでもあります。

そして、なによりもセムナン教会が神学大学博士課程で学んでおられた当時からナグネ宣教師を支援してくださっています。ことにイ・スヨン牧師のご厚意とご指導がありました。それでナグネ宣教師の神学大学での奉仕の道が開かれました。そのイ牧師は今年度で隠退なさいます。ナグネ宣教師の派遣期間延長に関係して大仕事があった(ある)のですが、最後の仕上げを共にしてくださっています。

あれやこれやで、一週間ほどソウルに行ってまいります。

レストラン・テラス

教区の農村伝道専門委員会に出席してきました。

会議の場所はレストラン・テラス。山梨県北杜市白州町白須というところにあります。田園風景に囲まれた静かな場所です。食事のために、誰がいったいこんな辺鄙なところまで来るのだろうかと思うような所ですが、ところがところが、そのような場所だからこそいただける食事があるということを知りました。

近くでできる厳選された食材を用いた、美味しい料理をいただけるのです。有機農法で作られたここだけで味わえる野菜とお肉とハムがお皿いっぱいに盛られます。一度は訪ねてみてください。景色も良いし、満足しますよ。

 

 

日本伝道協議会に出席して

6月6,7日に東京神学大学を会場に行われた日本伝道協議会に、久しぶりに、出席しました。

この協議会は、教団紛争を乗り越えて伝道する教団形成のために、協議していこうとの志をもって始められました。今回で26回を迎えました。

「伝道の最前線-危機からの再生-」が主題でした。小友聡教授による主題講演は、いつにも増して、情熱的で感銘を受けました。いくつかの具体的な提言をされました。わたくしは共感しました。ただ、残念だったのは、協議会で十分に事柄を深めることは出来なかったように思いました。

シンポジウムが行われ、4つの発題とそれぞれにレスポンスがあり、発題に対応して分科会が4つ設置されました。私は第一分科会「伝道の危機の中から」に参加しました。感想は控えますが、危機を転換点と受けとめ、足が地に着く、地道な取り組みが始められると良いと思いました。

協議の中でインターネットをどのように用いるかという話題も上がりましたが、教会はまだまだですね。真剣には考えたことがないというのが現状です。インターネットを用いて日常的に協議する手立てをもつようになれば、今回取り上げたような大切な主題をより深めることが出来るようになると思います・・・・・やる気が肝要ですね。

Swayで説教作成

MicrosoftのSwayは、牧師が説教を作る(原稿を書く)うえで有用なツールではないかと感じています。

Swayは小さなカードを何枚も並べて一つのストーリーを作成するようになっています。そして、そのカードを並び替えることができますし、重要なカードを大きな文字で表示することができます。

説教はセンテンスが長くなりすぎないほうが良いと思います。一つの小さなカードに納まるぐらいの長さがちょうと良いようです。その点で、Swayのカードは有効です。

また、いくつかのカードの連なり、その連なりが大切ですが、カードを並び替えることができるのも良いです。

そして、説教には段落がありますが、段落ごとにティール・ザーゲと呼ばれるまとめの句ができます。まとめの句を目標にして段落ごとに論述・言葉の流れを生み出していくと言い換えても良いかも知れません。そのまとめ句となるカードは大きな文字で表示することによって、説教作成者にとっても説教が見やすくなります。

明後日の説教準備をしながらSwayで作品を作りましたが、作りながらそう思いました。

 

 

iPad と 聖霊降臨日

もうすっかり古いものとなってしまった初代iPad miniをスケジュール管理とメモに特化して使うことにしました。スケジュールはサイボウズLiveのサイカルで、メモはEvernoteでと。通信は0円SIMです。

それで、さっそくEvernoteにiPadの音声入力を使って文章を入力してみました。びっくりです。すごく日本語文字変換が優秀なのです。簡単に入力できて、精度が高いものはWindowsタブレットや、Androidスマホには搭載されたいません。すごいと思いました。

さて、ここからが本論というか、今日、書きたいことです。


iPadの音声入力はすばらしいですね。「明日は日曜日、礼拝があります。」という文もちゃんと文字変換してくれました。これで、通訳アプリの精度がさらに良くなれば、嬉しい限りです。

わたしの説教も教会の皆さんの心に変換入力されれば良いのですが・・・・

明日は、聖霊降臨日です、


注)最後が  。ではなく 、 で終わっています。ご注意ください。

お孫さんが写真を

E教会のFさんご夫妻が段取りを進めてくださっていました。

トウモロコシの種植えから収穫までの様子を短い一本の動画にしたいと考えて、そのことをお話ししたのが3月の末のことでした。そろそろ種植えの時期だと思いながら、いろいろなことがあって取り組むことができなかったのですが、先日、Fさんご夫妻にお会いしたときに、種植えのときの様子をお孫さんがカメラにおさめてくれているとのこと。そして、成長の過程も写してくださるつもりにしていると伝えてくださったのでした。

7月末には収穫を迎えますが、教会の子どもたちや、近隣の牧師たちも招いてくださって収穫作業と、とりたてのトウモロコシのご相伴に与ることになっています。種植えから収穫までと、農業に携わってこられたFさんご一家の証や、子どもたちの声などを含めた動画が作れそうです。有り難いことです。

聖書と一言と祈り

10年ほど前に、ドイツの教会のある人たちから教えてもらった、少人数の祈りの会のことを思い出しました。

その祈りの会というのは、7,8人が一つのグループになります。4,5人でももちろん良いです。聖書を一カ所決めます。さて、祈りの会の始まりです。

1,聖書を輪読します。

2,誰かが聖書箇所について、短く一口メモ的なことを紹介します。

3,5分ほど参加者が聖書箇所を黙読します。

4,黙読中に思い浮かべたことを短く、ほんとに短く、一言ずつ紹介します。パスしても良いです。

5,順番に短く祈ります。パスしても良いです。

以上が、その祈り会のスタイルです。大切なポイントが二つあります。

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「聖書学より聖書のほうが大切だ」

神学大学の同級生で、ここ数年、よく電話をくれる友だちがいます。嘆きとぼやきの電話です。いや、失礼。キリスト教界を憂いて、鼓舞する電話です。

若い頃からリベラルな人だったと思うのですが、そして、教団政治でも違う立場でしたが、先日、受話器の先で「聖書学より聖書のほうが大切だ」と力を込めて話していました。聖書の歴史研究を中途半端に取り入れて、あるイデオロギー(解放思想)に傾く一部の人々(彼の周囲にはそういう人が多いようだ)に対する批判です。ほんとうのリベラルはそんなものではない、ということなのでしょう。

聖書学より聖書のほうが大切だ、というのはその通りだと思うのです。わざわざそう言わなければならない現実があるのは、日本では聖書と伝統に根ざして教会(共同体)を形成することが稀薄であったことに由来するのでしょう。そして、世の中の風潮や思想に教会が、私たちが考えている以上に、飲み込まれてしまっているのかもしれません。

がっかりしたことが一つ

平和を求める祈り、が常議員会で可決されたようだ。文面を見て、がっかりしてしまった。これが、教会で共に祈る、教会の祈りだろうかと、目を疑った。

決まり文句の戦争責任告白と、罪の告白が、最初と最後に、短く取り上げられているが、中身は、政治的イシューに引っ張られていて、昨今の政治状況に反応しているだけで、今日の世界が背負っている苦悩や困窮についての洞察も、深い嘆きも、神の義と平和と愛による支配(神の国)への祈求もない。神への賛美もなく、祈りの背後に霊性が感じられない。軽率で、政治的アディテーションにすぎないような祈りだ。

私は、その祈りを共に祈りましょう、とは言えない。紹介することもできない。

思い出した

説教塾という勉強グループがある。もう20年前になるだろうか。八王子セミナーハウスで、例のごとく泊まりがけで説教セミナーが開かれた。そのとき、大学生のグループがいくつかセミナーを行っており、、掲示板に書かれていた我々の「説教塾」という名称に、首をかしげたり、クスクス笑ったりと、不思議そうに眺めていたのを思います。

お小言をいうお説教のことを思い浮かべて、そのための塾があるなんで信じられないという反応だった。なるほど、一般の人には何のことか分からないだろう。

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その時、

牧師が教会を辞することを決め、役員会に申し出るということは、重大事項です。そして、その時の、たった一つの理由は、それが召命に応答する歩みであるとの確信が与えられたということです。

これは牧師の召命に関わることで、教会はそのことを受け止めていただく他はありません。また、辞意を表明して、それを翻すということもあってはなりません。そう思います。

牧師は牧師として教会に仕え、教会の徳が高められることを願って務めにあたっています。辞任をするときも同じです。もちろん、個教会のことだけではなく全体教会のことも牧師の責任の範囲ですから、そのことも考慮に含まれます。その上で、辞任が召命に応答する歩みであるとの確信が与えられて、その旨を教会に申し出ます。

その時、さまざまなことが考慮されます。公にできる理由もありますし、それが、本筋ですが、公には決してしない理由も内在します。一切を神に委ね、与えられた務めを終えて、教会を離れます。

辞任する牧師の心境をいろいろと詮索する人がおられます。その多くは人間的な基準から判断して、牧師はあのこと、このことで、悩まされていたのではないかとか、教会や教会員に対して不満が大きくなったのではないか、などという種類のものです。もちろん、牧師も一人の人間ですし、教会も人間の集団ですから、その中で様々な思いを抱くものです。それは、日々の歩みにおいて常なることです。しかし、分かっていただきたいことは、牧師は自分の誉や名誉を考えて物事を判断しません。そのような誘惑にかられることはありますが、そうであってはならないのです。繰り返しますが、教会の徳が高められるかどうかということです。

そのうえで、牧師として決断にいたったこと。それは召命に応答する歩みなのだということを受け止めていただきたいのです。時に、牧師の身勝手と感じることもあるかも知れません。私たちのことを見捨てたのかと思うこともあるかも知れません。そのような人間的な想いを抱くのは当然のことかも知れませんが、それ以上のことが、教会にはあるのです。

それ以上のことに、教会人は仕えているのだと思います。

こんなことを口にしたことはないのです、言いたい気分になったので書きました。失礼しました。

サーヴァント・リーダーシップ

この言葉を最初に聞いたのは、元資生堂社長の故池田氏からでした。当時、会社の経営方針として掲げておられたのでした。なんとなく分かった気分になっていましたが、後に、韓国の教会で同じ言葉で教会リーダーシップ論が取り上げられていることを知りました。

アメリカの教会が発祥のようですが、韓国ではセムナン教会(韓国における最初の教会で、社会の近代化をリードしてきた教会)のような歴史と伝統のある教会でも、盛んに取り入れているようです。

このたび、韓国監理教会(メソジスト教会)の協栄大学で神学を講じておられる先生のサーヴァント・リーダーシップ論が日本語に翻訳され、世に出る準備がなされています。本格的な書物のようですから、ぜひ、読んでみたいと思っています。

静岡説教塾

4年前に始まったそうです。静岡県の東海道線沿線の40代の牧師たちが中心のようです。

説教塾は25年ぐらいの歴史がありますが、わたしはその初期の時代のメンバーでした。30代後半から40代半ば頃のことです。昨日、中遠教会で静岡説教塾があるというので、出席しました。熱心な会でした。その情熱にふれて、嬉しく満足しました。

振り返ってみると40代のころが一番頭が働いていたようにおもいます。今は、バーベキューの墨で言うなら、燃え尽きる前の残りかすのようなものです。経験という燃えかすが、残り火をあつく覆ってしまっています。精神的には安定していますが・・・・

 

 

自主規制

という言葉が適切かどうか分かりませんが、信教の自由をめぐる講演を聞きました。

ちょうどオウム真理教による松本サリン事件から20年。今になっては周知のことですが、事件当時、警察はオウム真理教に対しては疑いをもつことなく、捜査・取り締まりにいたらないで、その後の地下鉄サリン事件を許してしまうことになりました。このように宗教団体による反社会的行為を許してしまった背景には、憲法で保障されている信教の自由に基づいてなされる宗教法人に対する行政の対応に難しさがあるようです。それで、悪用されたり、オウム真理教の場合のように隠れ蓑となりかねないのです。

講師は講演の中で、宗教法人に対して行政が上から監督したり、信教の自由についてなんらかの規制が伴うような解釈を示すということは不適切で、不可能であるとした上で、宗教団体が下から社会的に規範となり、信仰の自由の適用をより適切なものとするための解釈作業をすべきではないかということを話されたのでした。

すなわち、信教の自由のもと、公益性を認められて宗教法人として優遇処置を受けている宗教団体が、それに相応しい宗教性とはどのようなものなのかを、それぞれが良く認識し、互いに確認し、社会に規範をしめしていく、そのような努力をしていかなければならないのではないかという問いかけをなさったのでした。

これはもっともなことだと思った次第です。宗教には良き宗教と悪しき宗教とがあります。良き宗教とは何か、その指標は何か、宗教者自身でその議論を深めていく必要がありましょう。

 

東京で久しぶだったこと

日本、韓国、台湾の教会による協議会が東京でありました。責任の一端を担っているので3泊4日で行ってきました(まだ協議会は続いていますが、日曜日の礼拝がありますから途中で失礼して浜松に帰ってきました)。

協議会のことはさておき、東京で久しぶりに見聞きしたことがあるので、書き留めておきたいと思います。

1, 「地下鉄・中野富士見町駅」に30年ぶりに降りました。その近くに10代後半から20代後半にかけて住んでいたので、懐かしかったです。

2,「すしざんまい」でランチを食べました。Bにぎり980円。まぐろ系でまとめたランチです。懐かしい味でした。

3,たくさんの人を見、たくさんの人とすれ違いました。やっぱり人が多いですね。

4,タクシーに乗りました。(浜松ではまだ乗る機会がありませんし、乗る必要もありません。)

5,銀座で食事をしました。魚料理のコース、値段は内諸です。銀座らしい少しオシャレな店でした。(浜松ではまだオシャレな店で食事をしていません。)

6,I牧師にお会いしました。80歳近くになられるのに、早く辞めすぎたと仰っておられました。私は牧師ができるのはせいぜい70歳代前半までだろうと思っているので、驚きです。

7,台湾のS牧師に会いました。相変わらず、元気で明るい。亡くなったお父さん先生は、台湾で初めてお会いしたときに、私を「お相撲さん」と言って歓迎してくださったのですが、その血筋をひいています。今回は奥さまにもお会いすることができました。

8,台湾のR牧師にお会いしました。先月、新会堂を献堂されたそうです。10階建ての大きな教会です。今回は、土曜日に一旦帰国し、月曜日にご近所の100名のご老人方と一緒に再来日されるとか。いつものように、飛行機をチャーターして、日本観光です。台北の下町でユニークな伝道を続けてこられた先生です。

9,韓国のK長老(女性)にお会いしました。80歳を過ぎてもお元気で、日本の教育に関心がおありで、教会で青年たちの指導をなさっておられます。

10,韓国のS牧師にお会いしました。東京神学大学に留学の経験がおありで、大きな教会の牧師を最後に隠退なさいましたが、老人ホームの理事長として、まだまだ、頑張っておられます。かつてより、ほんの少し、弱っておられます。

おまけに、もう一つ。久しぶりといのではないのですが・・・初めてお会いした韓国のZ姉妹は、なんと東海教区議長の奥さま、金牧師のお母様でした。娘には内緒で来日されたとか。金牧師よりも優しいお人柄とお見受けしました。内諸です。

教区婦人研修会

浜名湖ロイヤルホテルで行われました。360名近くの参加でした。講師は金城学院の深井智明教授。わかりやすく、興味深い講演でした。

深井氏は20世紀初頭のヨーロッパ神学を専門とする神学者で、哲学の分野でも注目されています。20世紀神学といえばK.バルトですが、氏の専門はバルト以前のヨーロッパ神学、正確には19世紀から20世紀にかけてということです。その時代の神学はK.バルトによっておおいに批判され、その影響を受けた私たちの世代は関心の薄い分野でしたが、最近、見直されてきているようです。キリスト教の弁証という観点から、私も学んでみようかと思い始めています。

深井氏の講演は、その専門分野の難しい話は一言も出ませんでした。キリスト教の救いの教えを新約聖書のコロサイの信徒への手紙を手がかりに、「和解」と「新しい人」という表現で、わかりやすく、興味深く話されたのですが、その中に溶け込んでいたのでしょう。好感を持ちました。

婦人研修会は私のような男性牧師にとっては、気楽に参加できて有り難い会です。懐かしい方々にもお会いしました。大阪時代に牧師有志による勉強会を盛んにしましたが、家族ぐるみでの交流もありました。北信のK牧師夫妻はそのお仲間でした。互いに年齢を重ねましたが、若い頃の交わりと学びが、今日にいたるまでの肥やしになっているなあ、と改めて思いました。

その他、18年ぶりにお会いできた方々が多くおられました。お元気な姿に、嬉しくなったことでした。

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絵巻物

1960年頃の某教団の様子を描いた絵巻物を見たことがあります。東京のO牧師が描きました。描かれているのは、いたるところで会議が行われている様子です。そして、短いコメントが、「会議は踊る」。

2014年、今日の会議は、自分の教会では教会の皆さんに紹介することはない(紹介できない)ペーパーのために議論が費やされたのでした。「会議で眠る」。

昨日は浜松元城教会で説教を

4月から赴任する教会です。赴任前に長老会との打ち合わせも兼ねて主日礼拝説教を担当しました。礼拝者は25名前後だったかと思います。こぢんまりとした綺麗な礼拝堂でした。20年ほど前に一度説教と聖餐式をさせていただいたことがありました。その時の印象と重なり合わないのですが、わたしの記憶が混乱しているからかもしれません。

印象深かったのは、聖壇の椅子です。誰も座らない椅子が真ん中にありました。主がご臨在くださる徴として置かれているのだと思います。

それから説教壇が立派でした。重厚な作りで、私が仕えてきたどの教会の説教壇よりも素晴らしいものでした。私に、説教はどうなの?と訊かれると困ります・・・