第4章その3
ここでは、バビロン捕囚と捕囚民のユダヤへの帰還、エルサレム再建の時代に至る推移が論じられています。
古典ヘブライ語は前586年にエルサレムが滅亡するまでの400年間用いられました。この間、都エルサレムにおいてさえ話し言葉には変化が見られたであろう。しかし、書き言葉は、文法と語彙の重要なものはほとんどそのままで、文体だけが変化した。これは古典ヘブライ語が教育によって習得された文章語であり、主に社会的エリートが有用に用いたということを意味しています。当時は、書簡や書物は実際にはその著者によって書かれたのではなく、文字と共に書き言葉を習得していた専門の書記生によって書かれたのであった。これら書記生は、できうる限り厳格に言葉の基準を維持することに意を尽くした。なぜならば、話し言葉と書き言葉の距離が大きくなればなるほど、かれらの立場がより有利になるからである。つまり話し言葉と書き言葉に乖離が生じていったと、ラビンは考えています。
そして、ネブカドネツァルによるエルサレム破壊とバビロン捕囚によって大きな変化がもたらされました。ネブカドネツァルは祭司、書記官、職人たちを、すなわち書き言葉の担い手たちをバビロニアに移送させ、ユダヤに残ったのは「ぶどう酒を育てる者と農夫」(列王記下25:12)、すなわち村民だけであった。そのため、ユダヤでは、ヘブライ語が話されてはいたが、古典の文章語を引き続き育成する者が一人もいなくなった。
捕囚は70年続いた。この期間に捕囚の民は彼らのまわりの言語を話すことをまなんだ。当時のバビロニアの話し言葉はアラム語であった。他方書き言葉は古代のバビロニア語(アッカド語)で書かれて伝達されるものもの(公文書のようなもの)だけが用いられていた。
前539年ペルシャの王キュロスがバビロニア帝国を征服した。彼はすぐに公式な記録にバビロニア語の使用を禁じ、その代わりにもっとやさしいアラム語を代用させた。またペルシャの王たちはバビロニアの支配を受けずにペルシャ帝国の支配に置かれた地域にもアラム語を広めた。このようにして、アラム語はインドからヌピア(現北部スーダン、エステル1:1)にいたる広大な地域における伝達文書の言語にもなった。アラム語による碑文がインドでものこされている。前272年に全インドの支配者となったアショカ王が北西インドに建てた碑文である。その他に、アスワン近隣のイェブ(エレファンティネ)からアラム語で書かれた膨大な数の書簡や契約書が出土している。これらは、ヌピアの国境の近くに、ペルシャ人によって配置されていたユダヤ人駐屯軍からはっせられていたものである。それらはヘブライ語語法の影響がみられるが、すべてアラム語で書かれている。
これらのことから、キュロス王の勧めで帰還した捕囚民が、私的にも公的にもアラム語を使用する習慣を持ち帰ったと考えられる。彼らを見張るために、公務でのアラム語使用をペルシャ当局が要求したであろう。それ故、ネヘミヤ記8章8節には、書記官エズラが水門の傍にある広場で律法の書を民の前で読んだ時、「彼らは神の律法の書を翻訳して(メフォラシュmephorash)解説を加え、朗読箇所の[意味を]理解させた」と記されている。「理解させた」とはレビ人たちが人々に与えた説明のことであり、「翻訳して」とは聖書がアラム語に訳されたことを意味している。ちなみに聖書のアラム語訳は「タルグム」と表されている。この翻訳は聖書のヘブライ語を理解することのできなかった帰還したばかりの捕囚民にとって必要なことであった。同時にペルシャ当局への公式声明という目的もあったと思われる。