もがいていた時代に何をしたか。説教のための学びと共同の研鑽をしました。今回は、その話です。説教における私の非力ゆえに、学びと研鑽を必要としていたのでした。
説教は牧師の務めの中で最も重要な事柄のひとつです。また、教会に対して、教会員に対して大きな影響力を持つものです。説教者の責任は重大です。その重大さを十分には理解してはいなかったし(今は、少しは理解が深められたとはいえ、十分には理解したとは決していえません)、説教の非力によって引き起こされるさまざまな困窮については苦い経験として感じ取らされてもいました。そして、平たい言い方ですが、良い説教をしなければならない、という思いに強いプレッシャーを感じました。
どのような学びと共同の研鑽をしたかというと、
1、自分の説教を評価、批評してもらうようにしました。
2、同僚の牧師たちと毎週同じテキストで説教をするようにして、一緒に説教準備のための黙想をするようにしました。
3、当時活動が始まった説教塾に加わりました。
4、もちろん、自分なりの取り組みもしました。
以下、一つ一つ簡潔にご紹介します。
説教のために、なしたこと。
1、評価と批評をしてもらうようにしました。
家内に頼みました。評価と批評の手段は◯、✖️、△です。
◯の意味するところは、説教を聞いて礼拝が終わり、胸を打ちながら、しかし、密かな歓びを抱いて礼拝堂を後にした、です。
✖️は説教中にいたたまれず、その場を離れたいと思った、です。
△は、今日は説教を説教としてまあまあ落ち着いて聞けた、です。
日曜日の夕方、この評価と、その理由を聞くのが、時には喧嘩にもなりましたが、習慣となりました。
何年続いたでしょうか。これの良し悪しについては別の機会にお話しますが、説教を評価してもらうことは有益なことだと思いました
続く