最近、改めて考えさせられている。
召命は英語でcalling、ドイツ語でberuf。これらの語に微妙な意味の違いを受けとめる人がいます。
10年ほど前に、ある会合で元日銀総裁のH氏の隣にすわった。ちょうどその頃、日本伝道会というところから伝道パンフレットが出されていて、その1つにH氏の文章が掲載されていた。ご自分の仕事を神からの召しとして受け止めているという内容だったと思う。題は「召命」。H氏にその時パンフレットを読ませていただいたと申し上げたところ、「召命」という題に、あれは私がつけたものではないと、いささか憤慨しているという口調でおっしゃられた。
callingが元々の題だと言うのです。召命とcallingは違う、最近の牧師さんたちはそれが分からないのでしょうか、といわれたのでした。パンフレットを編集作成した方々への不満です。
callingでは一般の人には全くわからないと判断し、編集者は召命という日本語に置き換えたのだと思う。もちろん、それも難しい言葉であることには変わらないでしょう。それが、H氏には納得できなかったのである。その時、詳しい、それ以上の話をすることができなかった。今思うと、残念で、悔いが残るのだが、おそらく、日本語の召命を教会に仕える牧師や神父への特別な召しとH氏は理解し、callingにはドイツ語のberufの意味を重ねておられたのだと思う。つまり、世俗の職業を神の召と受けとめる宗教改革以後の職業感である。マックス・ウェバーが「プロテスタンティズムと資本主義とその精神」においてその職業感が倫理として根付き、その結果資本を生み出すことになって、資本主義が成立していったと分析したことはよく知られている。
H氏は、その職業感を大切なことと受け止めておられたのだと思う。また、牧師たちには「召命」をもっともっと真剣に受けとめてほしいという願いがあったのかもしれない。
その牧師が受けとめる召命感であるが、これが、近頃、どうも曖昧になってきているのではないかと思うのです。そして混乱も見られ、その出口も見出せないという状況が観察されます。
召命感を、牧師として立てられているという自分の内的確信、あるいは後ろ盾と受け止めている人がいて、時には、自信喪失につながったり、反対に、自己主張や牧師のわがままや特権意識を生み出したりしているように思うのです。それに対して、周りの者たちが狼狽するだけ、あるいは、適切な批判をなし、教会形成の道筋を見出していくということが出来なくなってしまっている、そんなことはないでしょうか。
召命感は召命を受けているという「感じ」ではなく、教会に仕える喜びや感謝、また、深く教会観に根ざした「いかに仕えることがゆるされているのか」という課題と共に受け止められるもののはずです。それは、個人的な確信や「感じ」ではなく、教会の有り様に関連し、信仰共同体がそれを認める(受けとめる)ことができるものです。教会がで分かち合う課題となるのです。そして、それだからこそ、教会(教団)が牧師を立てるということにもなっているのです。
その意味で、教会は自らの有り様を常に追い求め(求道し)、牧師は自分の召命感を公にし、それを実践し、その結果、教会の建設、健康で硬く立つ教会の堅立に資するのでなくてはならないと思うのです。つまり牧師の召命感は教会の自己理解(福音理解とその共有)となって発露すると言えましょう。その点で、教会も牧師も召命を確かめ合うことができるし、時には反省し、召命を受け取りなおすということになる、ならなければならないと思うのです。
分かりにくい文章になってしまいましいました。とりあえずここまでで終わりとします。
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