東京神学大学で同時代に学んだ毛利稔勝さん(牧師のブログをごらんください)の残した翻訳論文を、貴重な論文であるにもかかわらず、どなたも紹介なさらないので、少しずつでも紹介しようと思い立ちました。
ヘブライ語を話した最初の子ども:イタマル・ベン・アヴィ
リトアニアにエリエゼル・ベン・イェフダという若いユダヤ人がいました。彼は他のユダヤ人の誰も思い浮かべることのなかったヘブライ語を日常語とするユダヤ人国家という考えを抱くようになっていました。彼はこの革命的な考えをウィーンの季刊誌「ハシャハル」に連載しました。1879年のこと、「緊急の問題」というヘブライ語の論文です。
1881年(明治14年)、彼はパレスチナに到着します。そして、彼の考えを実現すべく、二つの斬新な原則を宣言しました。1,人々は家庭にあっては家族とヘブライ語で話すべきこと。2,ヘブライ語を教育の唯一の手段とすべきこと、です。彼自身、この二つの原則を実行しました。長男が生まれたとき、ヘブライ語が子どもの最初の言語となるように、あらゆることに気を配りました。そして、彼の長男イタマル・ベン・アヴィは最初のヘブライ語を話す子どもになったのでした。
さて、彼がなぜ革命的かというと・・・
起源131ー134年のバル・コクバ戦争以後、ユダヤ人は散らされ(離散)、ヘブライ語は日常的には話されなくなったのでした。すでに、それ以前から、すなわちバビロン捕囚後、ユダヤ人の一部は外国語を話すようになっていましたが、ユダヤ人は居住する地域の言語をそれぞれ日常的に使うようになったのです。
しかしながら、長い離散の時代、ユダヤ人がヘブライ語を読み書きしなくなることはありませんでした。宗教的教訓、哲学、自然科学に関する書物など、ヘブライ語による多くの文献が生み出されました。また、ユダヤ人が私的な書簡や記録をヘブライ語で書いていたわずかな国はいつの時代にもありました。ときには、わざとヘブライ語で話す者もいました。遠くから来たユダヤ人同士が出会ったとき、市場などでユダヤ人ではない客に聴かれたくない話をする時などです。そして、特に信仰深い人たちは安息日にはヘブライ語を話したようです。
しかし、それ以上のことではありませんでした。ヘブライ語を日常語とするというようなことは考えられなかったし、ましてや、ヘブライ語を日常語とするユダヤ人国家など思い及ばぬことだったのでした。
(第1章「略史」より)