ポケモンGo考

先日、NHKの時事公論でポケモンGoが話のきっかけとして取り上げられていた。スマホ依存から脱却するようにという呼びかけが論旨で、ポケモンGoのいっときの熱狂は過ぎ去り、今では、やっている人を見かけないと言って、スマホゲームの一過性とスマホに熱中することの空しさを指摘しておられた。

スマホをいちど捨てて、本を読んだり、文化的な何かに触れたりしてみてはどうか、という提案は結構なことだと思うが、ポケモンGoを矢面にして論を展開しておられたことに違和感を感じた。

ポケモンGoはスマホゲームでは特異な存在だと思う。それゆえにゲーマーからはつまらないと酷評され、気むずかしい人たちからは迷惑がられた。牧師の中にも、ここではポケモンを飼育していませんとか、宗教施設ですからご遠慮くださいという張り紙を教会入り口に貼った人がおられたと聞く。これらのことは、ポケモンGoがスマホ依存とは無関係であることを示している。

わたしのところもポケストップになっていて、当初、煩わしいことになるのではないかと心配したが、それはなかった。かえって、スマホの画面には教会の立派な写真と正しい名称が表示され、アップデート前の当初の段階では、簡単な施設の紹介もなされていた。

それはさておき、スマホを見ながら歩くのは危険だと指摘される。そのとおりだと思うが、最近、わたしが良く見かけるのは散歩し、会話を楽しみながらポケモンGoに興じている夫婦、あるいは、カップルである。

忙しくひとりでスマホと対戦するゲームや、室内に閉じこもってするゲームとは違い、散歩とゲームと会話の三点セットをポケモンGoは提供しているようだ。それだけではなく、ポケストップは地域や施設や、時には歴史にまで目を向けさせる(その点をさらに充実・改良したら良いと思う)、ジムでは思わぬ出会いもある。また、実は、忍耐を強いられる側面もある。急ぐ必要もない。そんなゲームなのである。