比喩と隠喩

NHKの番組で語られた立花隆さんの発言が話題になっているのを知りました。あらためて、比喩と隠喩について考えさせられています。

「☆☆☆同然」という表現は、「何々のようだ」「何々と同じような」という言い方ですから、いっけん比喩のように思われます。けれども、「光と闇」のようにコントラストが非常に激しい言葉が使われているのでアクセントが強く、隠喩のような効果を生み出しています。そう思います。

あの番組を観ていましたが、立花さんは「質量発見」のすごさに心踊らせておられました。その思いを言葉にしたかったのでしょう。そして、よく伝わりました。

アクセントが強い表現は、思わぬ仕方で波紋を広げるのかもしれませんが、国谷キャスターの最後の一言で収めるのが良いと思います。

続きに短い解説を書きました。よかったら読んでください。


比喩と隠喩とは違います。

もちろん、双方とも言葉の彩です。そして、「たとえ」です。けれども隠喩は「たとえの中のたとえ」で、他の「たとえ」とは違う次元を持っているように思います。それは、事柄を開示する力量があるということです。

比喩はよく知られたことを引き合いに出して、より良く事柄を説明します。あのお年寄りは相撲取りのようだと言えばそれ以上に説明は不必要で、太っていてお腹がポコッと出ている私の体型を思い起こさせてくれます。ユーモラスに文学的に?表現しています。けっこうなことです。

隠喩は、一般には主語が隠れていると説明されるのではないかと思います。隠れている主語を隠喩が描き出してしまうのです。そう表現してもよいかも知れませんが、二つの=で結ぶことができない事物を、むりやり=で結んでしまう表現方法であるとも言われます。

「アキレスはライオンである」という言葉をアリストテレスの文章かららハイデッガーが引用して、代表的な隠喩として紹介しています。アキレスはギリシャ神話に出てる英雄ですが、人間ですからライオンではありません。しかし、ライオンである、と言い切るのです。そうすることで、アキレスという人物がどのような英雄であるかを無限に語り出してしまう。

=で結ぶことができないものを=で結ぶというのは、そこに歪みや不合理を生じさせています(不適切さが生じています)、しかし、そうすることで、無限に事柄を語り出す効果が生み出されるというわけです。

無限に語り出すということは、それまでまったく気がつかなかったことが、気づかされてしまうということでもあります。開示されるのです。隠喩は開示する力があります。

そこで、立花隆氏の発言ですが、一方で科学者とその学問の世界のことが取り上げられています。理性を光りと表現すれば、もっともその光が輝いている世界です。しかし、素粒子に質量があるなどということには思いも及ばなかった。まるで光をほんの少しも感じることができないような有り様がそこにあった。その状況をどのように言い表すことができるか。そして、にも関わらず、質量があるということに気づき、それを証明することができた。それは驚くべきことで、その驚きの驚きが、どれほどの驚きであったかを、私たちは分かるはずがありません。

立花氏は、その驚きを表現するために、隠喩を用いざるを得ないのです。不適切な表現、隠喩を用いて語ったのだと思います。「☆☆☆同然」は不適切な言葉ですが、隠喩と等しい効力をもって事態を明らかにしてくれました。そう、私は感じましたし、驚きの驚きを共有しはじめています。

話は飛びますが、宗教言語は隠喩で表現されると言われます。開示される言語によらねば、私たちには知られない(受け止められない)真理に結ばれることはありません。それを語るのが宗教言語としての隠喩です。

クリスマスを迎えようとしていますが、カロルの中から差別用語や不快語が削除され、隠喩が取り除かれてしまったのは残念です。たとえば、「しずのめおば(わたしたちは、しずのめです。しずのめをははとしてもつ身です)、ははとして」というあの歌詞は、繰り返して歌うたびにクリスマスの喜びの深さを私たちの心に開き示し、その恵みを刻んでくれていたのではないでしょうか。