神学大学の同級生で、ここ数年、よく電話をくれる友だちがいます。嘆きとぼやきの電話です。いや、失礼。キリスト教界を憂いて、鼓舞する電話です。
若い頃からリベラルな人だったと思うのですが、そして、教団政治でも違う立場でしたが、先日、受話器の先で「聖書学より聖書のほうが大切だ」と力を込めて話していました。聖書の歴史研究を中途半端に取り入れて、あるイデオロギー(解放思想)に傾く一部の人々(彼の周囲にはそういう人が多いようだ)に対する批判です。ほんとうのリベラルはそんなものではない、ということなのでしょう。
聖書学より聖書のほうが大切だ、というのはその通りだと思うのです。わざわざそう言わなければならない現実があるのは、日本では聖書と伝統に根ざして教会(共同体)を形成することが稀薄であったことに由来するのでしょう。そして、世の中の風潮や思想に教会が、私たちが考えている以上に、飲み込まれてしまっているのかもしれません。