東海教区婦人研修会が焼津の松風閣で開催されました。講師は左近豊(トム)牧師。旧約聖書学者の一族、左近家の人で、自身、新進の研究者です。
テーマは祈りで、旧約聖書の嘆きの祈り、哀歌を中心としたお話でした。一言で要約するのは難しいけれども、教会はイスラエルの民の長い歴史をとおして習練された祈りの言葉、詩編や哀歌に寄り添って祈る、祈りの「場」であることが大切だというお話でした。
「場」の必要性がグローバル化を研究する社会学者から聞こえて久しく、また、講演者も紹介していましたが姜尚中さんのような政治学者もそれを語っています。経済格差の固定化、それに伴う、社会の不安定化と人の孤立化、非人間化という陰(カオス)がグローバル化には寄り添います。そこで、人が人間としていわば呼吸することができ、人々が共有できる「場」の創出が希求されています。で、実は教会は、本来、嘆きを共にすることができる「場」であるはずだ、というのが今回の講演の底に流れている旋律であったと思います。
夜、何人かの仲間と講師を囲んで歓談する機会がありました、わたしは、「日本人と韓国人と中国人が、ともに嘆きの詩編を共有し、祈ることができますか」と尋ねました。講師は「韓国の恨(はん)」は旧約聖書の嘆きと重なるところが多いけれども、日本人の「無常」とは違っている。けれども接点はあるのではないかという答えでした。なるほどと思った次第です。