再びパースペクティブ

ほんの少し関係を持つようになった聖書に関する番組制作でのこと。それは、アメリカで制作されたものを翻訳して日本語の番組にするというものです。

その番組の冒頭にパースペクティブという語が重要な意味を担って用いられているのですが、どうも、ちゃんと理解されていないようです。

この語は一般に、目に映る像を平面に正確に写すための技法、として知られています。絵画における場合です。写真の世界でも用いられますし、広く他の分野でも用いられます。「正確に」あるいは「彫り深く」「ちゃんと整理された」視点というような意味になるかと思います。

おおよそ、私たちの頭の中には、漠然と整理できずに、また、他の要素も混入した状態で、あることについてのイメージが、いわば一つの絵のように平面に描かれ、作られています。それは、混沌としたもので、不正確なものです。多くの場合、人はそれが正しいと思い込んでいるのですが・・・・。

しかし、それを出来る限り(完全にはできません)正確に、不純なものは取り除いて、よく整理されたものにしようする。要するに、クリティカルな作業をするわけです。その作業は理性的な手続きをもってなされます。理性的な手続きとは学問的と言い換えても良いでしょう。厳密な客観的な取り組みです。(余談ですが、聖書の真理は必ずしも客観的な真理ではありません。とわいえ、主観的でもありません。どう表現してよいか分かりませんが、その真理は共有され、ある価値観を伴って社会を形成することになりますから、単なる主観ではなく、さりとて、誰もが真理だと認めることができるような客観でもありません。単なる客観は社会を形成する倫理や価値観を生み出すことはありません。それは、それとして・・)

関係を持つようになった聖書を取り上げているそのその番組は、取り組む視点を、歴史的(歴史学的)で神学的なパースペクティブと表現しています。これがちゃんと理解されないのです。で、平気で「さまざまな視点(パースペクティブの翻訳です)から」論じ、「歴史的で神学的な論争含む」と訳してしまっています。

おそらく、たいしたこととは誰も感じてはいないと思いますが、この翻訳文では、厳密な方法論と取り組みを示す語が、あいまいで無批判(ノン・クリティカル)な視点を取り込んでいるものとしてしまっています(翻訳スタッフは、それで良いと思っているかも知れません)。

その後の翻訳に、その曖昧さが反映されています。翻訳者が抱いている混沌としたイメージが客観的に批判的に顧みられず、そのイメージに引きずられて、誤訳が繰り返されます。誤訳が生じるということは、聖書に関することで一般の人には良く理解されておらず無理もないことですが、パースペクティブに関して厳密な理解を欠いては、修正は不可能です。

ということで、久しぶりにパースペクティブという語を目にし、考える機会を得ました。