直前の投稿の続きです。方言指導の話から、合同教会形成について考えさせられました。
故北森嘉蔵先生は、教派というのは角度の違いから生じている、ということを言われました。どの教派も、まちがいなく教会である。しかし、異なった教派が存在し、時には、対立もする。それは、ある教派は正しく、ある教派は教会として間違っているといううことではなく、福音(その伝達体である聖なる公同の教会)に接する角度の違いだというのです。
言うなれば、教派はそれぞれの方言で福音を共有しているということです。方言の集合、それが合同教会ですが、そこに、豊かさもあり、難しさもあるということでしょう。
自家の信仰理解を主張すると、他の伝統とは争いになると考えがちです。方言の違いが、違いとして残ってしまう。それで、合同教会においては自家方言を主張しないという抑制が働きます。しかし、はたしてそれで豊かな合同教会が形成されるでしょうか。はなはだ疑問です。皆が、自分の方言で発語できなければ、根無し草になってしまい、その信仰は借りものになってしまうのではないでしょうか。
エキュメニカルな議論を意識しつつ、自家の理解を明確に表現することが大切なのかもしれません。自家の方言を、他者に充分に理解してもらえるように、台詞を選ぶ。その互いの努力が合同教会形成には必要なことですね。