という言葉がある。
イエス・キリストの復活を疑うということではない。そのことを疑うというのであれば、別に「復活節の疑い」などという言葉を生み出す必要はないであろう。そうではなくて、復活節には死の確かさへの疑いが始まっているということである。死んだらすべてが終わり、ということが疑われ、死が揺るぎ始めるのである。
ちょうど復活の日の朝、婦人たちが墓に向かう道すがら、墓の入り口に据えられた大きな石が悩みの種であったけれども、行ってみるとその石は動かされていたように、揺れ動くのである。弟子たちの頼りなさについても疑いおこる。彼らが確かな人となったというのではない、主イエスが「世に終わりまで、あなたがたと共にいる」と仰せになるからである。