捕まえて、無理に

キレネ人シモンは、無理に主イエスの十字架を担がされたとマタイ福音書に書かれています。

このシモンの姿は「自分の十字架を背負って」と主イエスが言われた弟子の姿を表しているのではないだろうか。自分の十字架とは、彼の(キリストの)十字架とも解釈可能だから・・・・・その時、シモンだって自分自身の重荷を背負っていたことだろう。そのシモンにキリストの十字架が重ねられた。そして、ゴルゴダで主イエスはシモンの重荷と共にご自分の十字架を引き取られた。

「無理に」とはシモンが自覚するよりももっと深く、徹底的にということであろう。ルカ福音書は、この時、人々がシモンを「捕まえて」と記しています。「捕まえて」とは、しっかり握って離さずに、主イエスのところに連れて来て、それこそ、無理矢理に十字架を担がせたということを意味しているようです。

「捕まえて」と訳されている言葉ですが、新約聖書にそれほど多くは用いられていませんが、主イエスの御手の働きをを伝えるときに、何度か登場します。たとえば、ベッサイダに行かれたとき、人々がひとりの目の見えない人を主イエスのところに連れて来ました。その時、主イエスは、その盲人の手をとって、村の外に連れ出し、両方の目につばをつけて、両手をつけて、お癒しになりました。主イエスが盲人の手をとって、連れだした、それがこの「捕まえて」と訳されている同じ言葉が用いられています。この目が開かれた人は、エルサレムへ、十字架へと向かう主イエスについていき、証人となりました。主イエスは、その人を捕らえておられたのです。

また、弟子たちが誰が一番偉いかと言って、言い争ったことがありました。主イエスは小さな子どもを取り上げて、「誰でも幼子を私の名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と仰せになりました。幼子を取り上げ、その取り上げて、という言葉が「捕まえて」と同じ言葉です。小さな弱い幼子は、主の御手の中にありました。

ガリラヤ湖でのことです。夜、主イエスは海を歩いて弟子たちの乗っている舟に近づいて行きました。気づいた弟子ペトロが「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください。」と言いました。主イエスは「おいでなさい」とペトロをお招きになったので、ペトロは舟からおりて、水の上を歩きはじめました。しかし、風を見て恐ろしくなり、おぼれかけてしまい、、「主よ、お助けください」と叫ぶのでした。主イエスは手を伸ばし、ペトロを捕まえて言われました。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」 弱さに沈むペトロに主イエスは手を伸ばして、しっかりと捕まえられたでした。

キレネ人シモンは人々に捕まえられて、主の十字架を無理に運ぶことになりましたが、そのシモンも、主イエスに捕らえられたのです。

「捕らえられ」「無理に」とは意味深長な言葉です。