「イエスに倣う」という言葉がある。同名のよく知られた書物がある。敬虔主義の流れにある教派では古典の一つとして今でも読まれているようだ。
最近、この言葉を使って自らの思想を表現している人がいるということを知った。この人は伝統的なキリスト教神学からは離れるという自覚をお持ちのかたである。
さて、倣うとは「手本とする」ということだが、今日のように聖書学の立場から史的イエスを描き出すことが困難な時代に、いったいどのようなイエスを手本とするというのだろうか。
アルバート・シュヴァイツアーが聖書学者でもあったということは牧師の世界ではよく知られていることであるが、彼はかつて「10人の研究者がいれば10人のイエス伝が生まれる」という意味のことを言った。それは、結局は「イエス伝」と言っても研究者の思い描く、その人の思想の反映にすぎないということを述べているのである。
同じように、イエスに倣うといっても、そのイエスは結局は自分の思想の反映であり、手本などと言えるようなものではないのではないか。この方は戒規を受けたのだが、所属する教派に対して、牧師としての身分確認と年金損害賠償を求めて裁判所に民事で訴訟を起こした。自分の身分、自分の年金、その権利を戒規如何にかかわらず主張し、この世の裁判に訴えるというのは、どこにその手本があるのだろうか。